【オランダ】利便性が高すぎてしんどい?

久しぶりにブログを書きます。
コロナウイルスの一件で、一歩外に出れば90%以上の人がマスクをしている状態です。

そもそも見知らぬ他人とほとんど言葉を交わさない日本人ですが、マスクをすることでより一層表情が見えず、外出先でもちょっと不穏な雰囲気だなぁ。と感じます。
出所がはっきりしない”コロナウイルス”という脅威に社会全体が怯えているような印象を受けます。

先日、電車に乗っていた時のことでした。
4人用の席で、向かい側に座っていた中年男性が何やらブツブツ言っていることに気がつきました。
私は本を読みながら彼の向かい側に座っていたのですが、どうやら”私”に何かを言っているような気がしてきたのです。

本を読んでいるフリをしながら耳を澄ましていると、

「こんな時にマスクもしてないなんてどういうことや…ブツブツ…」

と聞こえてきました。

「え?!あたしに言ってる?!」

その後、特別何かがあった訳ではないのですが、モヤモヤしながら帰路についたのでした。

そして、帰り後歩きながら色々考えていると、そのマスクぶつぶつおじさんの一件は、私の中の何かとリンクしました。
それは、日本に帰ってきてから感じていた違和感のようなもの。

私は公共交通機関を利用することが多いのですが、
日本の公共交通機関にはマークやアナウンスが多すぎてしんどいのです。

優先座席のマーク
ヘルプマーク
妊婦マーク
女性専用車両のマーク
電車のドアの位置マーク
ゴミをきちんとゴミ箱に捨てる看板

駅構内では黄色い線の内側を歩くようにというアナウンス
駅構内歩きスマホ禁止のアナウンス
車内での通話禁止のアナウンス
ラッシュ時はリュックを前に持つようにというアナウンス
座席は譲りましょう。のアナウンス
不審な荷物を見つけた時の対応アナウンス
女性専用車両のアナウンス
コロナウイルスによる時短勤務や在宅ワークを推奨するアナウンス
エスカレーターで歩かないためのアナウンス
エスカレーターで遊ぶことを禁止するアナウンス
エスカレーターで黄色い線の内側に立つことを伝えるアナウンス
長いスカートやゴム靴がエスカレーターに巻き込まれないためのアナウンス
まもなく降り口です。のアナウンス

いや、どんなけアナウンスすんねん!笑
特にエスカレーターでのアナウンス多すぎる。

百貨店ではどちらに立つか。というアナウンスさえ聞こえてきます。

こういったマークやアナウンス、もちろん利便性を考えてのことです。
また、社会的弱者と呼ばれる人たちの権利を守るためのものであることは理解できます。
だから、全くの不必要ではありません。

もちろんオランダにも優先座席のシートはあるし、そのマークも存在します。

ただ、日本に帰ってきて、これらの過剰すぎるマーク表示やアナウンスには弊害があるのではないかと思うようになりました。

そういったマークやアナウンスがその場を仕切る企業や団体からなされることで、多くの人が耳から入る情報に対して「従うが善」と、半ば強制的に判断してしまっていると思うのです。

「JRが言っているから」
「バスの運営会社が言っているから」

「だから」そうすることが”善”である。

そして何が起きたかというと、公然のルールがマークやアナウンスで明示されることで、人々は言葉を交わさなくなりました。

「お年寄りに席を譲るべきだってマークを見ればわかるでしょ?」
「あなたの行動は間違っている。JRが歩きスマホをやめろと言っているだろう」
「エスカレーターでは歩くな。アナウンスでそう流れているだろう」

時に言葉はなく、視線だけでのやりとりになることも。

「私が」そう判断したのではなく、
「運営権を持つ企業や団体がそう言っている」から、

「そのルールは守られるべきである」

オランダに住むようになってから、人々がおしゃべりなことに気がつきました。
そして、おしゃべりな彼らは人を助けることに対してのハードルが極端に低いです。

私が自転車でこけようものなら、周囲半径2mにいる人たちは同時に何人も飛んできてくれます。
これまで自転車で3回ほどこけましたが、いつも助けてくれるのは1人どころの話ではありません。
何人もの人たちが「大丈夫か?!」と私の元にすっ飛んできてくれるのです。

ベビーカーを持っていれば、電車から降りる時に手伝ってくれます。
私のそばにいる人が降り口で自然に手を貸してくれるのです。

お年寄りや身体の不自由な人が乗ってこれば、必ず誰かがサッと席を譲ります。

「ありがとう」
「いいんですよ」

そんな会話が、行動が、当たり前にあるのです。

トラムが何かの事情で止まってしまったら、電車が急に発車しなくなったら、オランダでは基本的にオランダ語でしかアナウンスが流れません。

世界で最も第二言語としての英語を話す人が多い国であっても、そういったイレギュラーな状況で英語のアナウンスが流れてくることは稀です。

オランダ語を話さない私としてはとても困ります。
でも、自分で周囲の人に聞けば、状況を打開できることも多いです。
時に、そこで親切丁寧に教えてくれる人だっています。

そういった経験は私に何を残してくれるか「良い人に出会ったなぁ」という印象です。
そして「良い人に出会ったなぁ」「嬉しい経験をしたなぁ」という気持ちは、自然とその国の一部のイメージに繋がっていくことも確かです。

インターネットで情報が簡単に手に入る時代になっても、
少しの不便を残しておかないと、私たちは対話をしなくなってしまう。

過度に市場化されたマークやアナウンスは、人々から対話を奪っていくのだと思いました。

そこで、電車での一件を思ったのです。

きっとあのおじさんは「自分が善だ」と言いたいのだと思います。
だってそれは、周囲の人々の多くがマスクを着用しているから。
日本人にとってマスクは”予防のためにするものだ”という共通認識があるから。
だから、お前もマスクをすべきだろう。
他人に迷惑をかけても良いとでも思っているのか。

そんな風に感じていたのだろうな。と。

正直、今のこの混乱した状況で何が善悪かを判断するのは非常に困難です。
私は電車でのブツブツおじさんをジャッジしたい訳ではありません。
また、自分を正当化したい訳でもないのです。

しかし、対話のない社会ではルールの過剰明示が思考力を奪うと思います。
利便性を究極に追い求める都市部ではそういった思考停止が極端に加速する気もします。

そもそも社会に散りばめられた数々のルールに従うこと自体もストレスではないでしょうか?
そこから、皆んなが懸命に小さなストレスを感じながらも守っているルールからはみ出た人を罰するが善という思考が生まれやすいと思うのです。

ルールやアナウンスに頼ることなく、一人ひとりが考える社会になれば、 一人ひとりの価値観をすり合わせたり、確認したりする作業が必要になります。
そして、その行為には対話が伴わざるを得ないと思うのです。

もっと社会に対話を。

考える機会をくれたぶつぶつおじさんにも感謝です。

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