【日本】「PYP Exhibition(エキシビジョン)」を通して考える”探求の学び”とは

みなさま、ご無沙汰しております。
あまりのご無沙汰加減に、この場においてこれまでどんなテンションで文章を綴っていたのか
さっぱりわからなくなっている、テンション迷子の私です。汗。

そんな私の、一条校でもありPYP校でもある京都の片田舎にある私立小学校に通う長女(相変わらず修飾語ながっ)は、あと1ヶ月後に、その小学校での卒業を迎えます。

前回の記事から3年ほどの歳月が流れたという恐ろしいタイムスリップ感は否めないのですが、
この3年の間に、子どもの成長はもちろん、小学校の変容、京都のIB教育環境の変化、良くも悪くもさまざまな動きを感じています。

と、長くなりそうな前置きは、置いておいて。
本題である、長女の通うPYP校における、6年間の集大成イベント「Exhibition(エキシビジョン)」について、今回はお伝えできたらと思います。

PYPにおけるExhibition(エキシビジョン)とは?

「PYP Exhibitionは、児童がこれまでの探究型学習で培った様々な力を、卒業研究として表現する発表会」と、ググると出てきます。(説明的なことはすぐAI頼み)

要するに、6年間かけて学んできた「内容」の発表(これだけ漢字が書けるようになりました〜、こんな計算ができるようになりました〜)ではなく、
6年間かけて学んできた「学び方(探求)」を使って行った自分の研究テーマから得た学びをアウトプットする機会、です。(要されてない?余計に難しくなってる??)

なので、
このエキシビジョンでオーディエンスとして必要になってくる視点は、
・自分の研究テーマがどう探求されているか
(何をテーマ設定したかよりも、どうテーマを探求したか)
・探求から得た学びをどう表現できているか
(人に伝えて活かしてこそ、学びの意味は生まれる)
だと思うのですが、要するにまとめると、(要するが多いな、)
・探求の「学び方」が身についているか
なのだと思っています。

私的観点で最も重要なのは、
6年間かけて身につけてきた学び方で、この小学校という枠組みから巣立った後も、
人生かけて学び続けることができるかどうか(学びを楽しみ続けることができるかどうか)であり、
その観点での我が子の成長が見られるか、
その一点こそが、このエキシビジョンで見るべきポイントだと、私は思っています。
(教育オタクの私としては、我が子だけでなく、この PYP校を学び舎とする子どもたちみんなが身につけることができたのかどうか、も気になるところ)

そして、今年卒業を迎える長女を含む、6年生のPYP Exhibitionが、長女の小学校で1月末に行われたので、ワクワクドキドキ、行ってきたわけです。

画像
長女のブースの様子

結論からお伝えすると、
こんなこと言うと各方面から叩かれるかもしれませんが(どの方面?)、
残念感が拭いきれないPYP Exhibitionではありました。

これ、ほぼほぼ調べ学習やないのーーーと心の中で叫ぶ私。
テーマに対して探求できているなと思えたのは、60名中3名ほど。
(あくまで私的観点ですのでご了承を)
長女を含め、ほとんどの発表が調べ学習に毛が生えた範囲でした。
(おい、言い方よ)

「探求学習」と「調べ学習」

そもそも、探求学習とはなんぞや、がまだまだ語られるこのご時世。
(要は、探求の概念が当たり前の概念になっていないということ)
以下、ググると出てくるのですが、

課題・テーマの設定者の違い
先生から課題を与えられるのは「調べ学習」。自分で問いを立てるのは「探究学習」
 
学習の目的の違い
課題の答えを調べて情報をまとめるのが「調べ学習」。課題の設定・調査・まとめと繰り返して主体的・対話的に学び、自分なりの答えを出すのが「探究学習」。
 
協働的な学びがあるかの違い
与えられた課題やテーマを調べて回答するのが「調べ学習」。対話的な学びや他者との協働が積極的に取り入れられているのが「探究学習」。

上記のように、
探求学習と調べ学習は、似て非なるもの、と私は認識しています。

得た知識と情報を、自分なりの「知恵」に変換することまでが学びとして必須であるべきで、知恵にするために必要なのが、他者との対話や協働だと、私としては考えています。

足りていない「課題発見力」

そして圧倒的に足りていないのが、問いを立てて事象に対して課題を見つける力、
言うなれば「課題発見力」だと感じました。

これは何も今回のPYP Exhibitionで思ったことではなく、
前々から、自分が働く社会の中で(自分自身のことも含め)強く感じていたことなのですが、
日本の世の中の大人たち(自分自身のことも含め)は、物事に対する本質的課題を捉えることがうまくできない人が多い(自分自身のことも含め)。←しつこい

何かが起こった時に(何かが起こらなくてもか)、これはこうだからこうなったんだという既成概念でうわべだけの課題感だけ拾って、物事を進めようとしてしまう。例えば、少子化が進んでいるのは子どもを産み育てることに対してお金がかかることに懸念する夫婦が増えているからなので子育て家庭にお金を配ろうとか、SNSの使用は若い子には悪影響だから法律で使わせないようにしようとか、

…これ以上この話を進めると広がりすぎてややこしくなるので、自主規制しますが、
「与えられた課題をこなして、正解すると褒められる」という教育を選択の余地ナシで与えられてきた今の社会に出ている世代にしたら、自分で問いを立てて事象の中に課題を見つけることなんて大人になるまで練習してきてないんだから、みんなヘタクソなんですよ、私然り。

でも、それじゃ困るなと社会に出て感じているから、
これからの世界を生き延びるには、
課題の発見や設定ができる力が必要だとしみじみ思うから、
IBにおける探求の学びを私は推しているのですが(流行りの推し活)、
今回のPYP Exhibitionにおいては、うわべだけの課題設定を(自分自身で見つけた本当に知りたい問いを立ててそこから辿り着く本質的な課題ではなく、世に溢れているようなよく言われる課題)している子たちが多かったなと感じました。

これは、6年間かけて、自分で問いを立て、課題発見力が心底身につくような学び方をしてきていなかった、という子どもたち自身の結果なのだと思うけれど、
子どもたちをそのような学びに導けなかった教員や学校側の反省点であるべき、学びの環境を作る大人の問題だと捉えています。

探求の学び方では学んでこなかった大人たちが
これからの時代を生きる子どもたちの探求の学び方を
どう組み立ててどうサポートしていくのか
子どもの学びに関わる大人たちのとても大きな課題がここにあり、

探求学習と調べ学習の違いをどこまで腹落ちして理解しているのか、
問いを立てることや課題発見力の重要性をどこまで心底感じているのか、
現場で子どもたちと向かい合うPYP校の先生方と腹割って話してみたいと思った、ただのいち教育オタクがここにいます。(何様なんだ)

児童期における学びの意味とは

リアル体験したPYP Exhibitionの話を通して、
長々とそれぞれの学習の違いや必要性を説明をしてしまったわけですが、

私自身が個人的見解として、児童期における学びに求めるものは、
冒頭でも伝えた通り、また私が書き始めた最初の頃の記事にもあるとおり、
”自ら伸びゆく子どもになるためには「知識」を学ぶのではなく
「学ぶことの楽しさ」を学ぶこと” であることに変わりはありません。

日本のIB校、PYP校における課題はまだまだあると感じているものの、
国際バカロレアのPYP教育カリキュラムが、
「学ぶことの楽しさ」を学ぶことの可能性を大きく秘めていると
PYP推し活中の私は信じている状態です。(だって推しだから)

そして、大前提として、自分の推しだからといって、
その気持ちを人に押しつける気はさらさらありません。

それぞれの親子にとっての、相性が合う推しの学びの形があるはずで、
それらを探して選択できることが当たり前な世の中になるといいな、と思っています。

長女が6年間お世話になったPYP校とも、もうすぐお別れ。
やっぱり子どもたちの声が響く現場が好きだなあ(教員でもなんでもないくせに)と思う私は、娘より淋しさを感じている気がする〜。
ちゃんと感謝を伝えて、卒業しようと思います!!
(卒業するのは私じゃないけど!)


前回までの12回の記事を読み直したところ、
体験者としてお伝えできるIBやPYP校のあれこれは
ほぼ網羅できていると感じているため、
今回の記事を長女の小学校記事においての完結編とさせていただきます。
お付き合いいただいた皆様に、多大なる感謝を!

  1. 京都より、初めまして。〜IB教育について〜
  2. 「学ぶことは楽しい!」を学ぶこと
  3. 子どもたちと共に学ぶ教員
  4. “選びたくても選べない”学費問題
  5. 「英語の授業」ではなく「英語で授業」
  6. コロナ禍で活きる学校のICT化
  7. 自分を輝かせることができる学校行事
  8. 三者が納得できるカンファレンス
  9. 「過程の記録」である成績表
  10. 学校に対する保護者のスタンス
  11. “責任”も学べる個人所有iPad配布
  12. 夏休みの宿題とはなんぞや
  13. PYP校6年間の集大成「PYP Exhibition(エキシビジョン)」

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