【ニュージーランド】入学後2週間泣き叫んだ息子の話

息子は日本から帰ってきてすぐにニュージーランドの小学校へ入学しました。
今年のTerm2の途中(5月中旬)から通い始めています。

実は、日本に行く前からすでに学校には一年ほど日本へ帰る旨を伝えてあったため、帰国前から学校と連絡を取り合い、入学後はどのクラスに入れようか、など話し合えたことは、とてもよかったです。

もし5歳の誕生日から入学していたら、息子はYear2のクラスにいるはずでしたが、英語の読み書きを日本では一切しなかったので、学校からYear1でも良いが、どうしたいか、と聞かれました。
実際には、Year1、Year1+2、Year2の3つのクラスから、どれにしたいか、という質問で、こういうことも親が主体となって決められるのも、ニュージーランドらしいように感じます。学校側も、子供を一番知っているのは親だ、という考えを持っているので、親の意見を一番に聞いてくれます。

私は、息子がどれくらいできるのか全く分からなかったので、とりあえずY1+2のクラスに入れて様子を見たい、と伝え、来年Year2に上がるのか、Year3へ上がるのかの選択肢を残すことにしました。

ニュージーランドには、息子は5歳の誕生日の少し前までいました。コロナ直前の1歳の時に3週間日本へ帰国した以外は、ずっとニュージーランドで育ちました。それまでは私が日本語で話しかけても英語で返事が返ってきていたので、日本へ帰った時、英語から日本語へ切り替わるのか心配でした。
けれど、なんと1日目にはほぼ日本語を、2日目には完全に日本語しか話さなくなっていたのには、子供ってすごいな、と感心しきりでした。何とか私がめげずに日本語で話しかけていたのが、功を奏したのかな、と勝手に分析しています。

日本にいたときは、今後は日本語習得に課題が残ることは明白だったので、日本語をがっつり学んでほしくて日本語だけで生活していました。日本語に切り替わるのはすごく早かったので、ニュージーランドへ戻った時の英語への切り替わりも、特に心配はしていませんでした。それに、生まれてから5年間英語で生活していたのだから、さすがに覚えているだろう、と思っていました。

しかし、実際ニュージーランドへ帰ってみると、日本帰国時と違って、全く英語が話せなくなっていて、とても驚きました。初めて英語に触れたみたいに、一言も理解できなくなっていたのです。父親とも会話ができず、いちいち私に何を言っているのか聞きに来るほどでした。

学校が始まった最初の2週間は、予想以上に辛い日々でした。毎日朝学校へ送っていくと、息子がクラスの窓から、英語の学校の行きたくない!と大声で泣き叫んでいて、さすがの私も、何てことをしてしまったんだろう、と心の中で泣いていたのを覚えています。

英語は、5歳直前までずっと触れていたし話していたので、一年日本語で過ごしたとしても、すぐに英語を思い出すと思っていました。でも、実際にはそれは間違いでした。すぐに英語に戻るだろう、というのはただの私の希望であり思い過ごしでした。年齢なのか、母親の母語が日本語だからなのか、日本語100%で生活した結果なのか、何が原因なのかは私にはわかりませんが、それが現実でした。

英語を忘れることは予想外でしたが、それでも、入学後は少し苦労するだろうな、ということはある程度予想していたことでもありました。保育園という、遊んでいればよかった場から、小学校という勉強をする場に移ることは、子供にとって大きな環境変化でもあります。おもちゃと向き合っていれば何とかなった保育園から、先生とコミュニケーションをとらなくてはならない小学校。ニュージーランドの小学校は、日本の小学校ともまた雰囲気も環境も違います。それでも、息子にはそれを乗り越えてほしいし、乗り越えられるような人になって欲しいとも思っていました。

全く分からない英語の、初めて通う学校で、先生が何を言っているのかも、みんなが何をしているのかも、何をしたらいいのかもわからない状態で、助けも求められず、6歳の息子は一人で苦しんだと思います。入学してすぐに学校のイベントがあり見学した際には、息子は普段と違う行動をしなければならず、どこへ行ったらよいのかもわからず泣き叫んでおり、そんな息子を見て私は精一杯心の中で応援することしかできませんでした。胸は痛みましたが、私を見つけて泣き叫んでいる息子に、こちらから手を差し伸べることはしたくありませんでした。

息子の泣き叫びを聞き続けたこの2週間、私としては良かれと思って日本へ一年連れて帰ったけれど、息子のためにもなると信じていたけれど、正解はやっぱりわからなくて、その時々に最善と思えることをやっていくしかないんだな、と改めて感じました。

私は、将来の糧になるように、今できることを逆算することも大切だと思っていて、でもそういう子育てをしていくうえで私が息子に課してしまった負担や苦痛を、私も分かち合わなければならないのだと、再認識しました。

入学後、息子にとって救いになったことは、たまたまその小学校に日本人の先生が勤務していたことでした。日本人の先生は他のクラスの担当でしたが、時折様子を見に来てくれたり、何をしているのかを説明してくれたり、必要ならいつでも会いに行っていい、という学校自体の柔軟な環境に息子も私も助けられました。息子の安心安定を第一に考えてくれた先生方のおかげで、息子は一度も学校へ行きたくない、と朝ぐずることはありませんでしたし、それでなければ、息子の泣き叫びは、さらに長く続いていたのかもしれません。

日本人の助けはできるだけ借りたくない、と最初は思っていましたが、当時は英語よりも何よりも息子が学校になじむことが第一であり、それを全面的にサポートしてくれた先生方には感謝しかありません。

半年経った今では、息子はぴゅーんとクラスへ入り、友達と遊び始め、私にバイバイすらしてくれないこともあるほどです。

ニュージーランドの、そんな柔軟な学校教育のシステムを、次回はお話ししたいと思います。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

水野 宏美

Hiromi Mizuno

  • 居住国 : ニュージーランド
  • 居住都市 : クライストチャーチ
  • 居住年数 : 15年
  • 子ども年齢 : 6歳
  • 教育環境 : 現地公立小学校

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