【日本】“責任”も学べる個人所有iPad配布

気づけば、新学期が始まり一ヶ月強、
あっという間にゴールデンウィークも過ぎ去り、
それと同時に、凄まじく辛い花粉症シーズンも過ぎ去り、
さあここから本格的に暑くなるまでが私にとっての天国シーズンだ!!ふふふん🎵
と思った矢先に、なんと梅雨入りだと?!?!
まさかのジメジメシーズンだと?!?!
今春の爽やかな陽気はどこへ逃げた?!?!
まだまだ身体も心も、すっきり五月晴れの青空を欲しているというのに!!!
なんとまあ、関西、気象庁観測史上、最速の梅雨入りだそうです 大泣。

雨は雨で、とても大切な恵みをもたらすことは百も承知。
梅雨は、大好きな紫陽花も咲くし、誕生日もあるし(誕生日が嬉しい年齢ではなくなったけれども)、決して嫌なわけじゃない、、、の、、、よ、、、うーんでもやっぱりまだまだ青空が恋しい。
いっそのこと、この続く雨で、相変わらず世間を賑わせているウイルスたちを押し流してくれたらいいのにな。

とまあ、叶わぬ願いを抱きつつ、
今回は、ゴールデンウィーク直前に、長女の通う国際バカロレア(IB)のPYP認定校で配布された、個人所有のiPadのお話を手短に。

配布という名の購入

長女の学校では、ICT教育として授業中のiPad利用(学校所有・別記事参照)や、宿題としてアプリの活用、またコロナ禍におけるオンライン学習導入など、入学当初から学校と家庭両方でタブレット端末の使用は当たり前の環境でした。
しかしその家庭での使用においては、各家庭で準備して〜、ってか持ってるでしょもうすでに、のスタンス。持っていないなら買ってくださいの指定はないけれど、持っていないと事が何も進まないでしょそれ、の状況でした。(さすが日本における私学、、、)

その状況が2年間続いて、長女が3年生となった今年度から、3年生以上の学年には、1人1台iPadが配布されました。
学校が配布するというと、タダで、もしくはすでに収めている学費やら諸経費諸々の中から費用算出してもらえるのかなと思いきや、そんなに甘いはずがない 汗。配布という名の、一台9万円弱を支払う必要がある、各家庭による購入です(ひーーーー汗)。

じゃあなぜ、配布と表現するのかというと、学校側が児童分を一括で購入し、学習で使用するためにiPad内の設定を全て統一し、学校管理下に置いた上で、各児童に渡すから。各家庭で購入して、設定は説明の紙を見ながら各自で行ってね、というわけではないのです。(壊れたりした時の端末の保険にも学校が入ってくれています)

付随する“責任”を学ぶ

8歳にして、学習用と言えども、自分専用タブレットを手にした娘。
昔の自分の時代なら、考えもつかない状況。(初めて自分専用の機器を持ったのは、高校入学と同時にようやく買ってもらえた白黒画面の携帯電話だったな)

しかし、子どもたちの様子はというと、自分のiPadだぜー!オレのもんだぜー!やったぜー!という変な高揚感があるわけでもなく(おそらくうちだけではなく全体的に)、それは、すでに今までもiPadに触れ合ってきた環境があり物珍しくないというのはもちろん、学校で個人配布iPadの使用について、今回手にしたiPadは子どもが使うけれどあくまで親の所有物であることなど、耳タコなほど聞かされたからではないだろうか。
配布するにあたって、iPadの使用ルールなど学校側からきちんと指導が入っていて(使うべき時、使うべき場所、使うべき方法など)、各家庭にも、親子で使用ルールについてきちんと話し合ってくださいねと、手作り冊子のようなものがご丁寧に配られました。
我が家でも長女と、冊子を見ながら使用のルールについて、「わかっちゃいると思うけど、、、」と話を始めたら、「学校でもう聞いた!」と一括されました 汗。(それでも大切なことなので、親子で同意事項を確認しましたよ)

本来の目的は、学びのツールとして配布されたiPad。それにあえて加えるとするならば、配布の二次効果として、子どもたちに、
「物(ハードウエアはもちろんソフトウエア、付属する個人情報等)を大切にする責任」
「ルールを守って使用する(守らないと、情報が漏れたりデータが壊されたりと自分事だけでは済まないことになる)責任」
の学びになるという効果もあるのではないかと。

何か“自分のものを持つ”ということは、それに付随して責任も付いてくる、ということを感覚として学べるのではないかと、勝手ながらに思っています。

紙から電子データへ、薪からiPadへ?

配布されたiPadの使用状況としては、以前から家庭内のiPadで学習していたのと同じように、宿題にもなっているEnglishのreadingやspellingのアプリをしたり、探求学習のプレゼン資料を作成したり、先生とやりとりできるアプリで連絡事項や課題の確認&提出をしたり等々、すべて娘が自分で行なっています。
タブレットよりもパソコン世代である私より、もうiPad使用スピードは完全に娘が上。
学習する中で、わからないことはすぐにググっていて、紙の分厚い辞典や辞書なんて存在が確実に薄れゆくばかりなのが、目の前の娘の様子から見て取れます。
アナログの紙の本が好きな私としては、そんな状況に寂しさが募るので(小学生時代、辞典が好きで読み物のように読破しようとしてた変なタイプは、そう私です)、新学年が始まる前に小学生用国語辞典を買い与えたのですが、それは一向に開かれぬまま娘の机の上に鎮座、、、。ああ哀し。

それはそうと、配布された次の日から、登校リュックに毎日入れて、ノートや教科書のようにiPadを持ち歩く日々。
大人には手軽に持ち運べる軽さでも、小学3年生の子どもには、まだまだズシンとくる重さ。
それでも、持ち運ぶことがもうずっと前から当たり前のことであったかのように、すっかり馴染んでいる娘の様子を見ると、二宮金次郎(ネタが古っ)が薪を背負っていた時代から、子どもが背負って持ち運ぶものが随分と変化したなあと、わけのわからん感覚で時代の流れを感じるのです。(今の時代、二宮金次郎像なんて、子どもたち知らないのかな。。。)

母としては、これから卒業までの残り4年間(いや、中学高校も合わせるともっともーっと)、iPadと一緒にリュックに入れて登校する、水筒のパッキンを付け忘れないことだけを必死に頑張る所存でございます。(やらかした経験アリ。お茶が全漏れ→リュック内ビショビショ→機器系に対して青ざめる、のだけはもうコリゴリ)

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