【オランダ/ハーグ】もめ事が起きた時「どっちが悪い」にこだわってしまうこと

こんにちは!
先日、現地校での授業の日、私が単独で行う授業が終わった後、別の学年の授業サポートとして入っていた時のことです。

“He is crawling.”(彼はハイハイをしています)という例文に基づいて、生徒たちがその真似をした時、一部の生徒2名の間でいざこざが起きて、1人の生徒が大声で泣き出しました。

その時に「ちょっとそとに連れてって対処してあげて〜」と言われ、教室の外へ連れ出したのですが、その時の自分の指導のあり方に関して反省した点がありました。今日はそれについて書こうと思います。

どっちが先にやった問題

子ども同士ではよくあること…それは「どっちが先にやった問題」です。…今回のもめ事は2人の児童の間で起きたのですが、簡単に言うと、Bさんが「膝を痛めつけられた」と泣き出し、その原因がAさんであるということから両者を教室の外へ連れ出したのでした。

でも、Aさんに話を聞くと「Bさんが最初にやってきたから私もやったのだ」とのこと。一方でBさんは「最初から私は何もやってない」の一点張り。…まぁ、よくありますよね。

泣いている(興奮している)状態では話はできない

いずれにせよ、まずは事実確認から。泣いている状態では話は出来ないので、「Bさん、泣いている状態では話は出来ないよ」と伝えたところ、すぐに泣き止みました。

これは「泣いている」だけに関わらず、怒っていたり、興奮していたりしても同様です。建設的な話がしたいのであれば落ち着かなければいけません。興奮状態で話をすると、後になって「そんなこと聞いてない!」などと言うことにも繋がります。話し合いをする時は感情的になる必要はなく、冷静に、建設的に話をするための”状態あり方”を考えなければいけません。

よって、「まずは話が出来る程度まで落ち着かせる。落ち着くまで話をしない」が鉄則です。

で、ことの経緯を”順番に”聞いてみる

「何が起きたの?」という質問を両方に投げかけることは最善ではありません。何故なら、両者が同時に話を始めると、声が大きかったり、説明が上手な方が仲裁者に話を聞いてもらいやすいという状況が生まれやすいからです。まずは「何が起きたか説明してもらおうと思うけど、Aさんから話を聞くので良い?」とBさんの合意を得て、状況を説明してもらいます。

「人が話をしている時は聞くに徹する」これは基本です。Aさんが話をしている時に訂正したいところがあったとしても、Bさんが口を挟むことは”一旦”我慢してもらう必要があります。さもなければ「そんなこと言ってない!」とか「そうじゃない!」というようなかたちで、結果的に「両者が同時に話す」という状況に変わってしまうからです。そして、それが両者が感情的になる火種にもなってしまい、結局ふりだしに戻ってしまいます。笑

…ということで、同意のもと、今回はAさんが先に話をしてBさんが後に説明するという順番で話が進みました。

結局食い違う「どっちが先にやった」問題…

両者の話を順番に聞いていくと、やっぱりAさんは「Bさんが先にやってきたから、自分もやり返した」と主張し、Bさんは「そんなことやっていないのに膝を傷つけられた」と主張します。

そこで、私はもっと状況を詳しく聞くことに専念し始めて「どちらが先にやったのか」ということにこだわって話を聞くようになっていました。

後にこれが誤った導き方であったと自覚したところです。

まず、”仕返し”はやめよう

「白黒つけなければ」….どこかで無意識的にそう感じている自分を認知したのは、しばらく話を聞き始めてからのことでした。

そして、ハッと我に返って、いかに自分が「起きてしまったこと」に対してのこたえを求めるように仲裁を行なっているかに気がつきました。

いやいや、違う。そうじゃない。そう思い直した私。

まず、Aさんには「仕返しはしなくて良い」ということを伝えました。「やられたらやり返す」それは、とても正当というか、当然のように聞こえますが、本当でしょうか?

例えば、自分は「やられた」と感じ、「仕返しをしたい!」と思っているかもしれませんが、そもそも最初の「やられた」というところが誤解だった場合は?相手はそんな意図なくやっていて、実は事故だったという場合は?すると、自分は「仕返し」と思ってやり返すかもしれませんが、相手は逆に「なんだよ、(初めて)やられた!」と思っているかもしれません。

そもそもの始まりが「誤解」だった場合、ここでの「仕返し」は実は仕返しになっておらず、もめ事をより大きくするための原因になっている場合もあります。

ということで、「何かされた!」と思ったとしても、一旦はすぐに「仕返し」という選択を選ばないということを心がけてみようと話をしました。例えば、暴力的な仕返しをするのではなく、当の本人に「何でそんなことをした(する)のか?」と聞いてみると良いかもしれません。向こうも逆に「え?何が?」となっていたら、それは彼/彼女が意図して行ったことではないということがわかるかもしれません。

何か攻撃をされた時はきちんと言葉で「やめ欲しい」と言うのが良いし、それでもやめてもらえもらえない場合は、大人を頼ると良いと伝えました。

“仕返し”という仕組みは、私は戦争に似ていると思っています。もちろん「それじゃあ”やられ損”じゃないか!」という気持ちもわかりますが、児童生徒には、まず落ち着いて、積極的平和的解決を望む人間として育って欲しいと思っています。

「誤解」は生じる、大切なのは「次どうするか」

平行線の話のように見える両者の言い分ですが、どうやら2人の間では「思い込み」による誤解があるようでした。そこで、私は話を整理しながら、2人が「こうだ」と信じているところに食い違いがあるのではないかと聞いてみました。

どうやら2人も「そうかもしれない」という様子。そこで、大人である自分にも誤解は生じるし、教室という限られた空間でたくさんの人が同時に動いている時、そういったことは起きてしまうのかもしれないという話をしました。

今回は「ハイハイをする」という動作を促した時にこういったことが起きたのですが、そもそもこのもめ事は「机の上」で起きていました。すると、Aさんが「次からは机じゃない場所でやった方がいいかもしれない」と言ったのでした。そしてBさんも「私も次からはそうする」と言いました。

最初に激しく泣いてしまったBさんの様子に心を痛めていたのか、Aさんは促されずとも「ごめんね」と小さな声で謝罪の言葉を口にしていました。私はその様子に対して何もジャッジはしませんでしたが、Aさんもまた「いいよ」と返答していました。

「…よし、これで教室に戻れる?」と、私が聞くと、2人とも「うん」と頷きました。

中立的立場として物事を見つめること

振り返ってみると、序盤の私は事実確認をすればするほど「どっちが悪い」という結論を導き出そうと必死だったように思います。両者の意見を熱心に聞くところまでは良かったのですが、黒か白か…どこかでそれを意識して2人の話を聞いていたように思います。

しかし、誤解は生じるし、「そんなつもりじゃなかった」が溢れるのが子どもたちの生きる教室。彼らの話を熱心に話を聞いているうちに、それを忘れてしまっていたのでした。

教師という立場は、そこにいるだけで子どもたちが「先生だ」と意識する立ち位置の人間です。だからこそ「この人に認めてもらおう」と思って話をしようとする子だっています。その気持ちを汲み取るような態度を取ると、結局、それが出来る子が有利に耳を傾けてもらえるという状況にもなりかねません。だからこそ、自分の立場の存在感の大きさに気を配りながら、中立的な立場を相当意識することが大切なのだと改めて感じました。

様々な児童生徒が混在する教室では、日々たくさんのことが起こります。彼らが大人の私を頼ってきた時は「自分たちで解決できない」と判断した時ですが、それよりも前に「自分たちで解決できる」という知識や方法、経験を身につけてもらうように指導するのも、大人たちの役目かもしれません。

これからも色んなトライとエラーを繰り返しながら、子どもたちが安心して成長していける教室を作っていこうと思いました。

三島 菜央

Nao Mishima

  • 居住国 : オランダ
  • 居住都市 : ハーグ
  • 居住年数 : 5年
  • 子ども年齢 : 8歳
  • 教育環境 : 現地公立小学校

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