【オランダ/ハーグ】娘の「学校行きたくないねんなぁ」というひとこと
こんにちは!ここのところめっきり暖かくなってきました。
少し出かけた時に目にする道端に咲く花々が、気持ちを明るくしてくれています。
さて、これは今朝の話。
娘の部屋のベッドに行くと、そこにはまだ眠たげな彼女の姿が。我が家では出来るだけ20時に就寝するように心がけていますが、最近は、眠たそうなので19時半にした方が良いのかな〜。と考えていたところ…
ボソっと娘が「学校行きたくないねんなぁ」とひとこと漏らしました。
おっ。これは何かあったのかな?と、朝からベッドサイドで話を聞いてみることにしました。
「学校に行きたくない」と言ったことがなかった娘
実は、娘はオランダの学校に通い出してから「学校に行きたくない」と言ったことが一度もありませんでした。言葉が全く通じなかった2019年の登校初日でさえ、嬉しそうに教室へ入って行ったのです(その前に、場慣れのためにこちらのインターナショナルのサマーキャンプには参加していました)。日本の保育園に通っていた時は時折、「保育園に行きたくない」と言っていた彼女。親としては、国が変わっても文句を言うことなく通ってくれていたのはとても嬉しいというか、誇らしく感じていました。もちろん、彼女が学校生活を送りやすいように、私も保護者と仲良くして関係性を作ったりという努力はしてきましたが。
でも一方で、もちろん子どもだって毎日を生き抜いていることを忘れてはいけないと常々思っています。嫌なことだってあるだろうし、勉強が辛いと感じることだってあるかもしれません。「オランダだから子どもはいつでもどこでも幸せ」なんてことはあり得ないと思っています。
「勉強が結構大変やねんなぁ」
「学校行きたくないんか〜。どうしたんやろう?何か嫌なことでもあった?」
「勉強が結構大変やねん。書いて、また書いて、大変やねんなぁ」
「そうか〜。〇〇は学校で頑張ってお勉強してるんやね。書いてばっかりでしんどかったら、先生に相談してみようか?今より少し書くのが少なくなったら、学校行けそうって思えるかな?」
「・・・・」(ちょっと違うらしい。笑)
「疲れるねんなぁ。今日はKorfbal(学校主催の放課後スポーツクラブ)もあるし、ダンス(習い事)もあるし。」
「そうかぁ、今日は学校はお昼までやけど、そこからKorfbalもあるし、ダンスもあるもんな。ちょっと予定がたくさんあるから、気持ちがしんどいんかな?」
「そうやねんな〜」
「じゃあ、Korfbalは今日はお休みにして、学校が終わったらそのまま帰ってくる?」
「今日は両方お休みしたい」
「ダンスも?」
「うん」
「おっけー、両方お休みにしたら、学校は行けそう?」
「うん、それやったら行けそうやわ」
「よし。じゃあ、今日は学校が終わったら予定はなしやね!お母さんと博物館かどこか出かけようか!」
「うん!やったー!」
ということで、学校には行くことになりました。笑
「休める」というオプションを
オランダの義務教育は5歳からですが、4歳から小学校に入学できます。この4歳と5歳の間は「ゆっくりと(大きな学校に)慣れること」を目的の一つとしているため、学校を休むことには比較的寛容です。一方でgroep3と呼ばれる、いわゆる日本でいうところの「小学一年生」になってからは、学校でも本格的に読み書き算数が始まることで、「学校を休むこと」は気軽なものではありません。
最初は「勉強が大変だ」と漏らしていた娘ですが、それよりも「予定の詰まった水曜日」に気後れしていたのかもな〜。と今になって思っています。
もちろん、学校のKorfbalも習い事のダンスも彼女の意思で始めたものですが、まぁ、人間誰だって「今日はダルイぜ〜」と思うことってありますよね。
「自分で決めたことをやり抜きなさい」というのは純度100%の話ではなく、たまには理由もなく休みたいこともあるし、心が晴れの日もあれば曇りの日、ザーザー降りの日だってある。それが人生ってもんです。
そんな時に「休めるんだよ」というオプションを小さいうちから教えておくことは、人生を長い目で見たときに「疲れたら休んで良い」とか「自分の身体の不調に耳を傾けられる」という意味で重要なのではないかと思っています。
夫婦でバランスをとる
私は朝が弱いので、朝ごはんや娘のお弁当は夫が作ってくれます。一方で、娘を起こしたり、身支度を促すのは私の仕事。今日はベッドサイドで話をしている時間が長かったので、夫が気にして娘の部屋まで様子を見に来てくれました。娘の暗い顔としょんぼりした空気の中、
「今日はKorfbalもダンスもお休みする方向で決まりました〜」
と私が言うと、「そっか、了解!」とのこと。
夫が娘を学校に送って帰って来てから、
「学校の勉強がしんどいらしくて、それが一言目に出るってことは、きっとどこかでそういうことを思ってるってことなんやと思うから、ちょっと気をつけてみてあげようと思う〜。ま、人生、たまにはラッキーがないとね〜。笑」
と言うと、
「そうか。とりあえず、学校へは笑顔で元気そうに行ったよ。そういうしんどい時とかの声かけは菜央の方が得意やと思うから、菜央がやってくれてよかったよ。一過性のことなのか、そうじゃないのか、ちょっと様子を見ていこう。あと、最近朝眠そうやから、もう少し寝る時間を早めた方が良いと思うんやけど、どうかな?」
「賛成〜。じゃあ、夜ご飯の時間を30分早める方向で」
「はーい」
ということでアップデートが終了しました。
片親でも、両親がいたとしても、問題はそこではなく、子どもの様子を多角的に見る視点や人がどれくらいいるかかな。と思います。私たち夫婦はまだまだ未熟な部分も多く、こうやって夫婦でバランスを取って、補い合わないとたった1人の娘でさえ育てられる自信がありません。苦笑
教育者であっても、その瞬間の子どもを育てるのはいつも「はじめて」だな。と感じています。
「子どもの毎日」は大変だ
私の両親は「学校に行く」ということに厳しい親だったので、「学校に行きたくない」という日があっても、なかなか学校を休ませてもらえませんでした。口が達者で生意気な子だった(と思う)ので、「一度学校を休ませたら調子に乗る」と思われていたかもしれませんが。←
高校に入って2年生で不登校になり、保健室登校や過呼吸で救急車で運ばれるなど、結構壮絶な時期があった時も、どこかで「学校は行かなければいけない」という考えに縛られ、そしてそれに対して身体が拒否反応を示してしまうことに苦しんでいました。「こんな私が情けない」と思っていました。それは「もうこんなに迷惑をかける私は死んだ方が周囲にとって良いんだろう」という考え方に変わり、いつもポケットにカッターナイフを入れていました。
娘はまだ6歳で、あの頃の私の状況と比べる必要はないかもしれませんが、それでもやっぱり、親が「子どもは毎日を生き抜いている」とどこかで理解しておくことは大切だと思っています。オランダ語を(今のところ)話さない親に育てられながら、比較的ゆったりした学びの環境で日々を過ごしているにしても、子どもなりに色々思うことはあって、それを言葉にできない幼さもあると思います。6歳が持つ「自分でもよくわからない感情」に耳を傾けずに「何を言ってるの、学校に行きなさい」と言うことは、彼女自身に蓋をしてしまうことなのではないかと思っています。
また、彼女が漏らした「勉強が大変だ」という一言も、簡単に聞き流せません。引き続きそれが「言える」という関係を築き続けながら、一過性のことではないのなら、何か私たち自身が手立てを考える必要があるようにも思えます。
過剰反応せず、でも着実に観察をする
「6歳の言ったことだから」とするのか「6歳が言ったことだけど」とするのか。このバランスは非常に難しいと思います。ただサボりたいだけなのかもしれないし、ワガママを言ってみたいだけなのかもしれません。一方で、放置すれば火災にもなる、小さな火種なのかもしれません。
いずれにせよ「観察を続けること」を大切にしようと思います。私たちから切り離された「一人の人間、一つの個」として自分たちの価値観だけを押し付けず、彼女の意見を聞きながら、時に「こたえのない問い」への”こたえ”を一緒に探りながら、ただ真っ直ぐ彼女の向き合う日々の中で観察を続けていこうと思ったのでした。
この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央
Nao Mishima
- 居住国 : オランダ
- 居住都市 : バーグ
- 居住年数 : 3年
- 子ども年齢 : 6歳
- 教育環境 : 現地公立小学校