【オランダ/ハーグ】学校の塀の低さから見えるオランダの社会
こんにちは!こちらはめっきり春らしくなってきました。
クロッカスが咲き始め、平日のカフェのテラス席では大勢の人たちがコーヒーと会話を楽しむ…そんな日常が戻ってきています。
最初に暮らし始めた時は、
「この人たち(ほんまに)仕事してるんか?」←おいおい
と思った訳ですが、オランダはワークライフバランス世界一(2019)ということもあり、働き方に柔軟性を持たせることが広く認められています。よって、平日からお店が賑わっていることが日常なのです。
さて、コロナの規制が厳格化される前に行なっていた学校視察ですが、オランダの小学校の中には、高い外壁や周囲の柵のようなものを持たない小学校も多かったです。今日はそれについて書こうと思います。
社会に溶け込む「学校」という場所
私がイメージする小学校には、いつもコンクリートの外壁や、動かすのが大変そうな鉄の門があります。門には南京錠がかかっているか、事務所から自動で開けることができるか…それは学校によって異なりますが、いずれにせよ「部外者の侵入は禁ずる」という感じで、用もないのに学校敷地内には入ることができない。というイメージでした。
一方で、オランダの小学校にはそういったものを持たないところも多く、30〜50cm程度の柵をひょいっと足でまたぐだけで学校の敷地内に入ることができるようなところも少なくありません。
また、建物の外観が周囲の景観に馴染んでいる場合もあり、近づいてみて初めて「あれ?これが学校か…!」というような小規模な学校もあります。
(広い)校庭もプールもない小学校
よく日本の方が驚かれるのは、オランダの小学校には(広い)校庭もプールも持たないところが多いということです。実際、私が暮らしている家の近くにある5校の小学校には全てプールも(日本のような広い)校庭もありません。
一方で体育館はだいたいどの小学校にもありますが、そのサイズは様々で、日本のように全校生徒が集まれるような体育館を持っている小学校は、かなり限られているように思います。多くの場合はバスケットボールコート1つ分というところでしょうか。
それもそのはず、オランダの小学校には「全校生徒」で行うような行事がほとんどありません。生徒全員が集まって全校集会を開いたり、始業式や終業式、入学式や卒業式を行うことがないのです。
また、オランダの学校は「災害時に集合する場所」として社会に認識されていないように思います。日本にある「学校」と名のつく場所は多くの場合、災害時に人々が避難する場所として指定されていることもあり、建物の耐震性が重視され、地域住民を収容できる場所として認識されているようです。
壁が高いこと=学校との心理的距離?
一方で感じるのは、オランダにおける小学校の外壁の低さは、ある意味学校との心理的距離を表しているのではないか。ということです。
やはり、外壁が高いと「特別な用事がない限り入ってこないでね〜」というメッセージを自然と社会に送ってしまっているのではないか…そこに「部外者以外の校内への侵入を禁ずる」なんて木版があれば、何だか簡単には立ち寄れない雰囲気を感じてしまうのは私だけでしょうか。
もちろん私の知らないところで、日本の学校設立における建設上の理由などがあるのだろうとは思いますが、地域における学校の役割とは何なのか。
こちらで学校視察をしながら小学校を見ているとそんなことを感じるのです。
日本の学校は物理的にも精神的にも壁が高くなった
日本の多くの小学校がそのようにして外壁を高くし、門を閉ざしているのは、もちろん過去から学んだ教訓によるものだとは理解できます。日本では1990年代を中心に、部外者が学校へ侵入することで子どもたちや教職員を殺めるという悲しい事件が続きました。
「学校は安全な場所じゃなかったのか」多くの人々がそう思ったことでしょう。心を痛めた学校現場はそこから一層、部外者の侵入に目を光らせ続けているように思います。
他にも学校主催の餅つき大会やバザーなどで食中毒(O-157など)が発生した事件を受けて、食べ物を扱うイベントが軒並み禁止になるというようなこともありました。高校の文化祭などでは、生物(なまもの)の扱いは難しく、すでに加熱処理済みのものを再加熱するかたちでしか飲食の出店はできない学校も多く存在します。
事件が起こる度に対策が施されるのは良いことかもしれませんが、根本的な解決につながっているか…と考えると、少し疑問を持ちます。
他人同士の会話の自然発生と、社会のあり方
一方で、オランダの小学校では前述した通り「全校生徒」が集まれるような場所はないことが多く、学校主催で(週末などに)地域に開かれるようなイベントは多くありません。…ということは、オランダの小学校は地域の人々が集う場所としての役割は果たしていないように思います。
しかし、それは決して地域と学校との間に精神的な距離がある…というわけではないようです。
ここで暮らしていると他人との距離が近いと感じることが多々あります。カフェやお店、スーパーの中でも、見知らぬ人同士が何気ない会話を急に始める様子を目にします。これは地域にもよるとは思いますが、比較的都市部に住んでいる私たちでさえ、近隣住民と挨拶をしたり、通りすがりの見知らぬ人と「こんにちは」と声を掛け合うことは多くあります。
少し話はずれましたが、社会生活において、良い意味で「誰かに見られている」ということは、社会を安全な場所へと導くのではないかと思っています。他人同士でも些細な会話が自然発生することは、ある意味孤独になりにくく、他人からの目を(良い意味でも、時に悪い意味でも)向けられているということは悪行に対する抑止力になっているようにも思えます。
それ以前に、社会は「学校」に対して恨んだり、悪いイメージを持っていないかもしれない?
もちろん、オランダにも悪行に及ぶ人たちはいて、ゴミ箱に火をつけたり、公園の遊具を破壊したり…というようなことはあります。しかし、その矛先が「学校」になることは少ないのかもしれません。ましてや、学校が標的になり、そこにいる生徒を無差別的に殺めたり…という事件は、私が調べた限りではありませんでした。
小学校の外壁が低いままでいられるのは、この国において人々が学校に対してどんなイメージを持っているかによる部分も大きいような気がしています。「学校のせいで」「あの時の経験が…」そんな風に学校を見る人が多い社会では、学校はある種の標的になり得るのかもしれません。
「不審者が学校を襲ったらどうするの?」という問いに対して、
「では、門に鍵をかけて防犯カメラをつけましょう」と答えるのではなく、
「何故、学校を襲う人が現れてしまうのか、どうしたらそういった人をなくせるでしょうか?」という議論をすることが、社会に求められているように思います。
この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央
Nao Mishima
- 居住国 : オランダ
- 居住都市 : バーグ
- 居住年数 : 3年
- 子ども年齢 : 6歳
- 教育環境 : 現地公立小学校