【オランダ】公共の場で他人の中高生を叱る大人を見て
先日、トラムに乗っていた時のことです。
中学生くらいの2人組の女の子が降り口に立っていた時、そのうちの1人が椅子の上に土足で立ち上がりました。
その様子を見ていた少し品の良さそうなオランダ人の女性が(実際のところは何人か分かりませんが、オランダ語を話していたので勝手にオランダ人とします)、
「土足でそこに立つのはやめなさい」
と、彼女に言いました。すると、
「その言い方は無礼だ」
と、女の子が言い返したのでした。
それから、彼女たちは怒りが収まらなかったのか、降りる駅に着いてからも、ドアが閉まらないようにドアをまたいだ状態で立ち続け、その女性に向かって何やら20秒くらい言い返していました。
もちろん、私にはそのオランダ語のやり取りがわからなかったので、彼女たちが降りてから、女性に「何を言い合っていたの?」と聞いて、何が起きたのかがわかったのですが。
この光景は、オランダで日常的にある光景ではないかもしれません。
ただ、日本では圧倒的に見なくなったもののような気がしました。
先日twitterで、
「日本人、もっと公共の場で喋ろうよ」
というツイートを見かけました。
私もそう思います。
というか、普段からそう感じてきましたが、日本以外の国(基本的にはアジア圏以外の国が多いですが)から戻ると、特に日本の人々が無言で公共の場にいることがいたたまれなくなる時があるのです。
つまり、他人同士の会話が極端に少ないのです。
人とぶつかった時も、電車で少し狭いスペースに腰掛ける時も、次の人にドアを開けて譲る時も、自転車に乗っていて車が優先してくれた時も、バスに乗る時や降りる時に運転手さんの横を通った時も…
あらゆる場面で日本人は言葉を発していない。と感じます。
しかし、オランダに住んでいると他人同士が「知り合いか!」のレベルで話をしている光景をよく目にします。
レジで並んでいる者同士、レジ係の店員と客、カフェの店員とお客、銀行で自分の番を待っている客同士…などなど。
バスの乗降や、トラムの乗降で運転士の近く通るのであれば、ほとんどの人が、
“Goedenmiddag” (こんにちは)
“hoi” (こんにちは)
“Hallo” (こんにちは)
“fijne dag” (Have a good day, 良い日を)
“dag” (bye, さようなら)
“doei” (bye, さようなら)
“dank je wel” (ありがとう)
などと声をかけます。
時にはトラムの運転士の近くを陣取って、自分が降りる駅まで喋り続ける客もいます。
それに対しても、運転士は特に迷惑そうではなく、慣れている感じもあったりします。
今でこそ日本ではほとんど見なくなりましたが、私が子どもの頃はこういう光景がもっとあったように思います。みなさんの幼少期を思い出してみてどうですか?
知らない人同士が話をして「お嬢ちゃん、何歳や?」と聞かれるようなこともたくさんありました。
しかし、今や、日本の都市部ではそういった話をしてくる人さえ疎ましいと思うような文化があるように思います。むしろ、「危険」と捉える人も多いのでは?
以前、「オランダは昭和の日本みたい」という記事を書きましたが、
(オランダは”昭和の日本”かも…?)
こちらで生活していると、赤の他人が話をしている様子を見て、言葉がわからなくても、その雰囲気に心地よさを感じることがあります。
そして、私たちアジア人にもそんな風に話かけてきてくれる人もいたりするのです。(もちろん、差別的な発言をされるようなこともありますが)
話は戻りますが、トラムで女の子に注意をした女性。
彼女は決して少女たちを言い負かしてやろうとかそういう雰囲気ではなかったように思いました。
ただ、
「悪い行いを見て見ぬ振りをする大人であってはいけない」
というような気迫のようなものを感じました。
大人として、悪いことは悪いことだと伝えなければいけない。
そういう雰囲気でした。
案の定、少女たちはその女性に刃向かい、女性が少女たちを説得できることはできなかったのですが。
ただ、自分たちの行いに対して注意をしてくる大人がいたという事実は残ったと思います。
誰かが自分を見ていて、注意してくる場合がある。という経験的な学びのようなものです。
実際のところ、学校教育でも同じで、見過ごし始めれば事態は思わぬ方向へ向かうこともあります。
かと言って、一辺倒にどの生徒にもいつもいつもうるさく言いすぎるのが善だとも限りません。
しかし、
「見られていない」「放置されている」「かまってもらっていない」
そういった感覚的なものは、人間の行動をネガティブな方向へと加速させるような気がします。
「別に誰も見てないんだし」
という気持ちは、決してプラスの感情とは言えません。
大人が子どもたちを公共の場などで注意すれば、もちろん反抗されることもあるだろうし、嫌味を言われることもあるでしょう。
しかし、それさえもない世の中の方がむしろよっぽど虚しい社会だと気づくべきなのかもしれません。
私は元教師なので、生徒に指導する中で暴言のようなものを吐かれたことは幾度となくあります。
「うっさいんじゃ、喋んな」
「偉そうに言うな、どっかいけ」
「ほんま調子乗ってんな」
「うっとおしいんやけど」
「お前誰やねん」
などなど。
関西弁だと余計に言葉がきつく感じられることもあると思うのですが。笑
高等学校という場所においては、どうしても「教科の先生」という縛りが強くなりますが、あらゆる場面において、”学校の生徒”として指導する方が良いと私は思っています。
授業を習っている先生ではなくても、生徒は生徒であり、私は教師だからです。
高校ともなると全体の生徒数が1000人以上にもなるので、「この人誰」と思われることに関しては多少は仕方ないかな。とも思うのですが、教科指導をしていない生徒に廊下などで指導目的で声をかけると、
「お前誰やねん」
と言われることもありました。笑
まぁ、確かに名前を知らなかったら「お前誰やねん」と言いたくなるのはわかるのですが。←
これもまた日常生活で他人同士の関わりが減ってしまったことの弊害だな。と思います。
そういう時は「三島です」と素直に名前を言うのですが、生徒としては「そういう意味じゃない」というような顔をするのも事実です。←
つまりは、名前が知りたいのではなく「何でお前に言われなあかんねん」というのが真意でしょう。
ただ、頭ごなしに「何やそのものの言い方は!」と言っても通じない時だってあります。
むしろ「お前誰やねん」と言うような生徒にはそういった頭ごなしの指導はほとんど良く作用しません。
そういう時は「三島です」と名乗ることで、ちょっと突破口を探るかたちになります。
無論、その時の生徒の顔は言葉では言い表せない表情の時もありますが。(だって名前なんてどうでも良いんですもんね。笑)
少し話は逸れましたが、あらゆる場面において「子どもを見守る」という意味での社会の目はとても大切だと思います。
大人が”見て見ぬ振り”をしてしまえば、子どもはそれを良しとします。
「どうせ見て(もらって)ないし」という否定的な感情が加速します。
人は誰だって、できれば誰かの干渉を期待しているものです。
そういった意味で、あの時少女たちの素行に注意したあの女性は“大人としての社会的役割”を果たそうとしたのだと今になって思うのです。
オランダという国で幼少期の日本に懐かしさを感じながら、どれだけ時代が前に進んでも、現代を生きる子どもたちのために大人ができることは意外と昔から変わらない、いや、変わるべきではないのかもなぁ。なんて思うのでした。