【オランダ】移住から1年、日本語塾のこれから
前回のブログから半月以上が過ぎてしまいました…
本業(塾業)が少しずつ忙しくなり、その準備に追われているのと、子どもの相手(主にシルバニアファミリー)に忙しい日々です。←
しかし、ついに今日からオランダの小学校が全面再開。
感染が縮小化した訳ではないので、大きく喜べる訳ではないのですが、とにかく「毎日学校に行ってくれる!」という点では助かります。
…ということで、不謹慎かもしれませんが、小さくガッツポーズ。←
幸い、娘は今日も元気に学校へ登校してくれました!
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さて、2019年の5月にオランダへ母子移住し、そこから1年が経ちました。
3月中旬、コロナ騒動真っ只中の頃に、彼が日本から合流。
オランダで家族3人の暮らしが始まって、約3ヶ月が経とうとしています。
オランダに戻った翌々日から学校が閉校してしまったので、彼自身、”オランダの暮らし”らしいことは、ほとんどしていないのですが。笑
それでも、こんな状況であったにせよ、また家族3人で暮らせる時間が戻ってきたことは喜びです。
移住から1年、
留学ではない海外暮らしを始め、
起業して会社を立ち上げ、
シングルマザーで子どもを育てるということを経験し、
とにかく、多くのチャレンジがあった1年でした。
文字通り“なにもない部屋”から始まったオランダ生活。
楽しさ、喜び、驚き、困惑、寂しさ、怒り…もうそれはそれは、たくさんの感情が溢れる1年でした。
そしてやってきたコロナ旋風!
ただ、この世界的パンデミックのお陰で、教育というものをもう一度見直す機会になったと思っています。
世界的に社会がこのようなかたちで“一旦停止”を求められることなど、生きているうちに一度あるかないか…そして、社会が立ち止まるということは、教育もまた立ち止まることを強いられる。ということです。これは滅多に起きることではありません。
その時に見えてきた「教育」や「学校」というものの価値。
本当に「教育活動」の本質を見つめ直すための良い機会だったと思います。
もちろん、ビジネス的には打撃を受けた部分もあったのですが、授業をオンラインに切り替えたりする中で、教育の中の何がオンラインが可能な部分で、何がオンラインでは難しい部分なのか。という棲み分けが、よりクリアになりました。
さて、1年経過したところで、これからの展望について。
おかげさまで、本業として始めた塾業にも生徒はポツポツと増え始め、私たちが信じる「探究型」の授業を進めています。
「探究」というのは、簡単に言うと「自分の興味軸やスピードに合わせて、知的好奇心を起爆剤に学習する」ということだと理解しています。(いや、ちょっと簡単に言いすぎた)
順序よく教材を与えてばかりの教育ではなく、子どもをよく観察し、子どもにとって必要なタイミングと必要な量に合わせて授業をファシリテートする。自分で好きなことをとことん学ぶ中で、あれが必要だ、これについても調べたい….という風に、学びの舵を自分でとれる学習者を育てる。ということです。
この「探究型学習」や「カスタマイズされた教育」は、私たちが日本の高等学校教育の中で手に入れようともがき苦しんできたものですが、
高校生にまで成長してから、
「自分の興味関心に基づき、知的好奇心を起爆剤に自走する」(自立した学習者へと育つ)
ということがどれだけ難しいことかということを実感してきました。
自立した学習者が生まれにくい背景には様々な背景や原因があると考えていますが、それについてはここで書くことを割愛します。
とにかく、私たちが気づいたのは、
「自立した学習者を育てるには、高校生では遅い」
ということでした。
これは「高校生では不可能」とは異なります。
「高校生になってからでは、困難を極めやすい」
ということです。
つまり、それまでの学習習慣や思考の癖というものは、数年で作られるものではなく、
積木のように積み上げては壊れ、また積み上げていく…というようにして出来上がっていくものだ。ということがわかってきました。
また、そこには経済的な格差が関係し、子どもたち自身が変えることの出来ない要因、
・経済的要因
・保護者の子どもに対する観察力
・保護者の教育に対する知識や関心
なども関わっている、ということが教育においては大きな要因でもあります。
少し話はずれましたが、子どもたちが自立した学習者になり、将来「社会で自立した人間」へと成長するために必要なものは、社会にうまく組み込まれるための教育ではありません。
「好きなことをとことんやる」
実はこの経験こそが、先の見えない社会において最も大切なことだと思うのです。
「体育の成績は良いけど、社会科目が芳しくない…」
「文系科目ばかり良い点数を取って、数学の成績ももっと上げて欲しい…」
多くの保護者からこういった声を聞いてきましたが、大人が学力の平均化を図ると子どもは混乱します。
そして、好きなことばかりをやることは「わがまま」なのではないか。と思うようになります。
大人に忖度して、好きなことに熱中する熱量を平均化させていく。
そうすることで生まれるのは「平均的な学習者」であることも少なくありません。
しかし、歳を重ねるにつれて、大人たちからこう迫られます。
「あなたが本当にしたいことは、学びたいことは何なの?」と。
当の本人は分かりません。一体、大学で何を学びたいんだろう…何が好きなんだろう…
私は社会の一員として、一体どうやって生きていきたいんだろう。
長くなりましたが、私たちは本当の意味で「自分の興味関心に即した教育」を提供したいと思っています。
例え、「こんなことを深く調べて何になるんですか?」というような内容であったとしても、
本人の「マイブーム」や「熱中したいこと」を軸にして日本語を進める。
それは、その過程の中にこそ、本人にしかわからない楽しみや感動の種があるからです。
何かに熱中する中でしか得られない情報収集の方法や、問題解決の方法があります。
本屋さんで「本を1冊買ってあげる」と言った時、これまで散々ポケモンの本を買ってきたのにも関わらず、またポケモンに関する本が欲しいと言う。
その時、「またポケモンの本…たまには図鑑とか小説でも読んだら?」
大人の発言はこうなりがちではないでしょうか。
しかし、大人になってから「とことん好きなことを追求する」という行為の始まりは、実は子どもの頃の経験にもある。と私たちは思っています。
そして、結局、社会で幸せに生きていくためには「好きなこと」が必要です。
今の自分の仕事が「大好きです」と言いながら日々を生きられる人生。
「そんなの無理無理」ではなく、その理想を追い求めたいのです。
一見、大人からすると「何でこんなものばっかり…」という物であったとしても、それは、大人たちが成長する途中で、自分自身を社会の仕組みにあてはめるために削ぎ落としてきたものかもしれません。
だから「好きなことでとことん日本語を学ぶ」これを大切にしたいと思っています。
また、日本語を学ぶことで「自分の中に流れる日本」を誇りに思って欲しい。
これは、愛国心とかそういったものとは少し違います。
「誇り」というのも、少し語弊が生まれてしまう言葉かもしれません。
「自分の中に日本というものがあって良かったなぁ」と、思えるように、多くのことを伝えていきたい。ということです。
オランダと日本の歴史を比較したり、現代の文化や言語を比較したりして、その違いを「良し悪し」で判断するのではなく、純粋に言語を通して調べ、話し合い、理解することで「面白さ」を感じ、そういった比較をすることができる自分自身の人生を楽しんで欲しい。と思っています。
2つの文化を生きる機会は、誰しもにあることではない。ということ。
貴重な経験ができる、稀有な運命を生きていることを楽しんで欲しいのです。
日本語には独特の美しさがあります。
また、読書とは過去や著者との対話です。
多くの作品に触れ、正しく日本語を理解することは、情報が溢れる社会において、物事を正しく理解し、発信することにも繋がります。
また、日本語を通して他者と会話し、意見や価値観を交換することは、その言語を通して相手を尊重し、対話を通して相互理解を深めることにも繋がります。
今、コロナや人種差別などが社会問題として大きく取り上げられていますが、
物事をより多角面から理解するには、多くの言語を正しく扱えることがアドバンテージになるのではないでしょうか。
ここで暮らす子どもたちに対して、「あなたには日本のルーツがあるんだから、日本語ができるようになれ!」とは決して思いません。
その子にとって日本語が「興味関心」から外れるのであれば、それはそれで良いのだと思います。
強制はしない。でも、「やりたい!」と思ったら、全力でファシリテートする。
そうやって、子どもたちの興味関心の種を一緒に花開くよう育てたいと思うのです。
まだまだ塾業だけで万々歳!とはいかない生活ですが、
「学校ではないところに魅力を感じました」
と、言っていただけることも多くなってきました。
また、平日に通うことができる点においても、
「習い事感覚で、子どもにも保護者にも負担が軽くて良いです」
とおっしゃって頂いています。
逆に言うと、うちの弱みは、学校という枠の中にある文化を用意できないこと。だと理解しています。
一緒に机を並べて給食を食べたり、季節毎の行事などを学校という、学校という独特な雰囲気の中で楽しむ行為は、うちでは用意できないものです。
ただ、その点に関しては、これから週末の午前中に屋外での異年齢交流を通して、「ちょっと学校っぽいことwith日本語の遊び」という感じのイベントを展開していこうと思っています。
子どもは結局、子ども同士の交流の中でよく育つ。そう思うからです。
これからも私たちはコンテンツ、「学校じゃないからできること」を大切に、どこまでも個に応じた教育を実践していきたいと考えています。
あくまでも私たちはファシリテーターであり、案内役であるということ。
学びの主役は子どもたちであるということ。
私たちが学校教育で40人の子どもたちに出来なかったこと。
その悔しさを忘れずに、軸である塾業を続けていきたいと思います!