【オランダ】たかが公園、されど公園

オランダも再度コロナの感染者が増えています、こんにちは、アムステルダムの有川です。

これが第2波というやつでしょうか。
旅行は全く計画していないので、密にならない近隣で、夏休みの思い出を作っていくしかありません。
そう考えると、自転車移動・公園遊びが、子どもも楽しめて大人も安心か…

というわけで、我が家の夏休み唯一の課外活動は公園巡りです!
(ずっと過去を振り返り続けてきて現在のことに追いつきそうにないので、時系列がおかしくはなりますが、今回は今私が考えていることを書きたいと思います。)

いつも日本食材店への買い出し時に通りかかって気になっていた公園、Amstelpark(アムステル公園)へ!

遊具の色彩感覚がどことなく日本的で、懐かしい気持ちになる公園です。

娘たち、ノンストップで3時間遊び続けておりました。
公園内に小さなギャラリーもあるし、園内にいくつかの作品も置かれているとのことで、私はもっと公園全体を散策したかったのですが……他にどこも行けず…泣

そんな中で印象的だったのは、順番を待てないオトモダチに横入りされるたびに、困った顔でこちらをみる娘たち。
長女はため息をついてちょっとアピール。ささやか〜(笑)

「自分のやりたいことをやる!」
こちらの子どもたちの強さを感じます。

そんな様子を見ていて、娘たちもこの環境に揉まれてどんどん強く…というよりは、「柔軟」になってもらいたいな、そう思いました。

幼少期に過度に秩序を守ることや自己抑制を鍛えるのは違うと思いますが、
「公共の場で他人のことを考えようとするきっかけを作ること」
これは親がやれる最大のことかもしれません。

”後ろが詰まってるからここで止まるとよくないのかも” とか 
”他の人が並んでいるからぼくも並ぶようだ” とか
「詰まっていること」「並んでいること」を発見することさえできれば、自然とその場のルールが体感できます。(私はいつも娘に言い過ぎちゃいますが…)

世の中のルールは、そのつど変わる可能性があります。

海外移住、そしてコロナクライシスによって、この半年、私はまさに目まぐるしく変わるルールを体感してきました。
日本で良かれと思われることがこちらではそうではない、昨日まで正しかったことが今日から正しくない、そんな日々でした。

人との握手を断ることは無礼なふるまいだったのが、今では誰からも批判されません。
命を大切にする、そんな根本的なことすらも、時代や場所や信じるものが変わるだけで、簡単に崩壊します。

私は大学院で、教育哲学、その中でも「現象学」という分野に興味を持っていたのですが、そこでは「間主観性」という考え方がありました。

もう十数年前のことなので自信がありませんが、自分(主観)と現実(客観)という二項対立で考えることをまずやめます。
現実は、客観それ自身のことではなく、考え方の共通性、共通了解が成立した時に、人と人の間に(=間主観的に)そのつど現れ出るもの。

例えば、「あそこに女の人が立っているよ!」と自分が言っても「え、見えないんだけど」と言われたら、途端に自分自身の客観性が危うくなりますよね。
「本当だね、髪の長い白い服の濡れた女の人が近づいてくる…」と言われると、そこでやっと客観性が成立します笑。

そう考えると、自分の欲望をとにかく押さえ付けて、「ルールに従いなさい!」と強制することはあまり意味がなくなってきます。ましてや叩いたり恫喝したりして理解させるのは、あまりに無意味です。

なぜなら、場所、文化、状況が変わればルールも変わるからです。
絶対的な現実はないからです。

それよりかは、「考え方の共通性を探っていく、想像していくこと」が重要になってくるのではないかと思うのです。
「何が正しいか」「どちらが正しいか」を知ろうとするのではなくて、共通了解の条件を理解することにエネルギーを使うほうが理にかなっているような気がするのです。

教育の意味も、きっとそこにあるのではないでしょうか。

正しいことを覚えるために学ぶのではなくて、どこへ行っても共通了解を探し出せる学習態度を身につけること。
見えないものを見ようとすること。
もちろんそのために知識をインプットする必要もあるはずです。

「あ、並んでるね」とか「後ろが詰まってるね」とか、もしかしたらそんな言葉がけだけで、基本的なしつけは成立するのかもしれません。

でもまぁこちらは、、基本放置ですね…笑!
そして私は言い過ぎちゃうのをやめたい。

たかが公園、されど公園。

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