【オランダ】異文化の中で生きる経験は、異質なものに寛容になる心を育てる(と、私は信じている)

前回の記事を書いてから、色んな人から「それから元気にやってる?」と気遣いを頂くようになりました。

「まぁまぁ本気のdepression」からの「娘を強く抱きしめた日」…ということで、「色々気持ち的に、いっぱいいっぱいなところありそうやけど、どうよ?」という感じの声かけをいただいて…本当に幸せなこっちゃです。

気にかけてくれる人がいるというのは、本当に幸せなことで。
そんな人たちの”優しい気持ち”に支えられて生きているなぁ。と感じます。

正直、9月から始まった私たちにとっての初めてのオランダ小学校生活。
無我夢中で走り続けてきたわけですが、私たち2人にとってストレスフルあ日々であったことは確かだと思います。

そして、おもちゃがなくなる、私が迎えに来ない、雨の中不安の中で待つ、泣き疲れる、craft classはしんどい…と、多くのネガティブイベントが重なった日に繋がりました。

日本で暮らしていたとしても、きっと子どもにとって環境が変わる時や、親の生活に変化がある時というのは、多少なりともストレスがかかります。
しかし、海外移住というのはそれ以上のものだなぁ。と実感する日々です。
海外移住で得た経験が、私や彼女の人生においてネガティブな要素になるのか、将来的にポジティブな要素になるのか、それは、今のところ分かりません。

ただ、これまで親子2人でオランダの生活で様々なことを乗り越えて思うのは、
この異文化での生活(あらゆる異質なもの、言語における不便さ)において数多くのストレスを感じてきた私たちは、国や言語は違えど、同じ経験をする人たちに対して寛容になれる。ということです。

例えば、これはよく言われることですが、
第二言語習得を頑張った人、要する私たち日本人にとって二つ目の言語を習得することに懸命になった人は、同じ経験をする人、例えば海外から日本に留学に来た人や、海外から日本に来た外国人に対して共感の気持ちが生まれやすく、寛容になれる。というのがあります。

自分自身が言語習得における困難を経験することで、同じ境遇にいる人の気持ちが比較的容易に理解できたり、「うんうん、そういう時困るよね」と共感できるところが数多く存在する。ということなのだそうです。

これは、言語というものが”ことば”としての役割だけではなく、”文化”や”その言語を話す人たちの生活”を含んでいる。ということだからかもしれません。
言語習得に時間をかけると、言語能力はもちろん、それに付随する”その言語を取り巻く文化そのもの”を学べる。というのがあるのです。

もちろん第二言語習得をしていなくてもそういった人たちの気持ちはわかるだろう。という意見もあるとは思うのですが、人というのはなかなか自分の経験以外のことを想像しにくい生き物だと思います。

…少しややこしくなりましたが、私がオランダに移住を決めた理由の一つがこれです。
要するに、
「娘には異文化で生きる中で、多くの不便さを経験して欲しい」
そして、
「そういった経験を通して”異質なもの”に寛容な人間に育って欲しい」
というのがありました。

英語でこれを説明する時、私は“understanding”という言葉を使います。
つまり、様々な事柄に対して“理解を示す”人間になって欲しいという意味です。

例えば、日本で出会った日本人が
「私はキリスト教です」と言ったとしたら、
「私はゲイです」と言ったとしたら、
「私はバイセクシャルです」と言ったとしたら、
「私は養子として育てられました」と言ったとしたら、
「私の親はアルコール中毒です」と言ったとしたら、
「私は同性婚カップルの元に生まれた子どもです」と言ったとしたら。

こういった「一般的とは少し違う」ということが、自分の中に違和感として残る。
それはまさに、”一般化”を肯定する社会のが生み出したものだと思うのです。
私はその”違和感”を感じない子どもに育って欲しいと思っていました。
私が属していた教育の現場でも、このような”一般化”は多く見られていました。

とりわけ、性についての寛容さはほとんどなかったと言っても良いと思います。
日本の教育現場はあまりにも”協調性”や”規則”を重んじるあまり、個人が抱える問題に対しても精神論で乗り越えようとするところがまだまだあります。

もちろん上記のような多様性への寛容が日本でいつも受け入れられない訳ではないし、逆にオランダで誰にでも受け入れられる訳でもありません。
これは、あくまで私の感覚的な話です。

しかし、一歩日本を出てみると、マイノリティであっても”自分が何者であるか”ということをきちんと胸を張って説明できる人たちがいて、そういった人たちに対して寛容であることが求められる社会があるのも事実です。

話は変わりますが、
娘の本棚には“タンタンタンゴはパパふたり”という絵本があります。

これは、ニューヨークのセントラルパークで愛し合った二羽のペンギンのお話で、その二羽のペンギンは、オス同士だったという実話です。
彼らはオス同士で愛し合いますが、どうしても赤ちゃんペンギンに恵まれません。オス同士のペンギンが子を授かるというのは、生物学的にみても不可能なことなのです。
そしてその二羽のペンギンは、周囲のカップルを真似て、どこからか手に入れた石を交代であたため続けます。
それを見た飼育員が、他の巣から産み落とされた卵をそっと二羽の巣に置き、
二羽のオスペンギンは赤ちゃんに恵まれ、周囲のペンギンと同じように子育てをしていく。という話です。

私はこれを日本でも娘に読んでいましたが、正直なところ”誰を想像して読めば良いだろう”というのがありました。
そして、具体的な話が出来ないと、娘にとっても“オス同士に子どもができる”“男性同士がパートナー関係である”ということが想像し難いのです。

しかし、オランダに来て同性の夫婦と知り合いになったことで、娘には「◯◯のところのようだね」と話をすることが出来るようになりました。
そして、もちろん娘はそこから質問をするようになります。それは、“普通とは違う”という子どもながらの感覚からです。
子どもは自分の身の回りの世界、要するに“大多数の世界”=”普通”と思って過ごしますが、そうじゃないケースにはもちろん「なんで?」がつきまといます。

しかし、この「なんで?」という質問に身近な例を添えてきちんと答えることで、「そういう人たちもいるんだ」と寛容さを身につけることが出来ると思うのです。
そして、一度でも自分自身が“少数派”として生きた経験があると、“マイノリティの人たちに対する理解や共感”は、より進みやすいのではないか。と私は思っています。

これはオランダ(というかアジア人が少ないヨーロッパの地域)に住むアジア人あるあるですが…
街を歩いていると現地の子ども(低年齢層)に「顔に穴が空くわ!」というくらいガン見されることが結構あります。本当に頻繁にあります。
これはつまり、ヨーロッパに住む子どもたちに「なんだこの顔」と思われている。ということ。(テルマエロマエ的に言うと、”顔平たい族”)
自分というアジア人がオランダにおいて“圧倒的に少数派である”と自覚する瞬間です。

日本であればほとんど経験しないこの違和感と「え?どんなけ見るん…?」という気持ち。
実はこれは、私がこっちで経験できて良かったと思っていることの一つでもあります。
…日本で生きていれば圧倒的多数派だったにも関わらず、オランダへきて圧倒的少数派へ。

そして、決してハッピーとは言えない少数派としての経験。
この経験が彼女にとって、他者への寛容な心を育てる糧になりますように。
そんな風に思う日々です。

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