【オランダ】かつて私が授業の一部をYoutube配信にした話(2)

学生時代のことを思い出してみてください。
「あなたは学んでいるのか?学ばされているのか?」
この問いに、かつてのあなた自身はどう答えるでしょうか。

“学びの主権者は自分であるという自覚があるか”
生徒自身が学校教育や授業に対して、“学ばされている”と思っているのか、“自ら学んでいる”と思っているのか。ということです。

日本では“高校に行くのが当たり前”という風潮がありますが、“高校に行かない”という選択肢もあります。
もちろん、高校卒業程度の資格がなければなかなか仕事も見つかりにくい日本です。
よって、「行きたくないけど、高校くらいは行っておかなくては」という感覚にさせられるのも事実です。

ただ、高校で教えていた私には、これから子育てをする保護者の方に必ず中学3年生の時に確認して欲しいことがあります。
それは、「高校に進学するのか、しないのか」という家庭での意志確認です。
群衆心理や世間体から決めるのではなく、自ら「高校に行く」と決めさせて欲しいのです。(高校に進学したいという気持ちがあることが前提ですが)

「行くのが当たり前だから」「親が高校くらい行っておけって言ったから」
“自分の意志で高校に進学した訳ではない”…そう思っている生徒は折れやすくなります。
自分の今いる状況は「自分で決めたことじゃないし~」と言い逃れしやすくなります。
つまり、学習においての当事者意識が不足するのです。

Youtubeの動画配信を観ない生徒には一定の共通点がありました。
それは、
「やってもやらなくても良いと言われたら、やらない方を選ぶ」
という基準で物事を判断しやすいということです。

結論からいくと、「勉強はやらされている」と思っている生徒です。
こういった思考は人間、誰しも持ち合わせています。
ダイエット、筋トレ、勉強、何かの練習…一筋縄ではいかないもの、習得した暁には何が待っているのか想像し難い、もしくはその道のりが長いと理解している時、人は尻込みすることがあります。

しかし、学校の単位認定はダイエットとは異なります。
ダイエットは最悪しなくても、人生が大きく左右されることはないかもしれませんが、学校の単位認定というのは時に人生を大きく左右するのです。

そして、それが学校生活による日々の積み重ねによって決定するということ…その重要性に気づいていない…いや、重要なのは分かってるけど、後回しでもいけるっしょ。と思っている。
そういった生徒が自宅で動画を観ないのでした。

それはつまり、彼らの中には「自分で学ばなければいけない」というよりは、
「いやなのに学校に通わされている」「いやなのに勉強させられている」という、どこか当事者意識に欠ける気持ちがあるからです。

残念ながら、義務教育ではない高等学校にもそういった気持ちをもった生徒は多く。日本の高校生の精神年齢は先進国の中で特に低いのではないか。と思っています。

その話は置いておいて…

とにかく、Youtubeのレビュー数を確認すると「家でも動画観ません」という生徒に対する対策がある程度必要だということが分かってきました。
そのために講じた策がこれです。

これだけでは「何のこっちゃ?」となるかもしれませんが。
これは、私が考査返却が終わった直後に配る”次の考査までの授業計画表”です。

高等学校では、考査のあとに考査返却があります。
大体の場合、考査返却には20~30分程度を要するため、残りの30~40分は次の考査範囲に入るか、何か繋ぎになるような投げ込みの教材をするか…という風になります。

私の場合は、考査毎に授業スタイルを一新するため、考査返却のあとの時間は、
「次の考査までの授業はこんなスタイルになります」
というような説明に費やす時間にしていました。

要するに、1学期中間考査の返却が終わったら、
「では、1学期期末考査の授業スケジュールはこんな感じになります~」
と説明する時間を設けていた。ということです。

この授業計画表に書かれている内容は;
・100点で構成される成績の内訳(80点分が考査、20点分が平常点)
※平常点とは提出物や小テストなどの教師裁量でつけることができる成績の部分
・どういった評価基準で平常点がつけられるか
・考査返却日から考査直前の授業までの授業計画
・課題の提出日
・小テストの日程とその範囲
です。

これを配布するには様々な理由があるのですが、1番の目的は
“自分で学習スケジュールを立て、提出や小テストに向けて逆算できる高校生になる”ということ。
いつまでに何をしなくてはいけなくて、そのために今何をするのか。
ということを身につける。ということでした。
受験への姿勢作り…そしてそれは社会人になった時のスキルにもなります。

これを配ると、
「先生、めっちゃ計画立ててるやん」
と言われる訳ですが。笑
これを配るのは「私は行き当たりばったりで授業をしている訳ではない」
ということを生徒たちに伝えるためでもありました。
計画があり、時に軌道修正しながら、みんなで共通意識をもってこの24回の授業を作って行こう!という宣言のようなものです。
授業というのは教師が作るものではなく、生徒と一緒に作っていくものである。
これは私が絶対に譲りたくない”授業スタンス”なのです。

さて前回 “to be continued”で終わった、
「動画観ても観なくても良いなら観ないよ~」となってしまう生徒への対策ですが。
対応としては、ある一定期間で動画板書をしてきたかどうかの“プリントチェック”を実施する。ということで落ち着きました。
本音でいけばこういうことはしたくないのですが、そういう指導がまだまだ必要な学校に勤務していたので、これはやむ無し…でした。
例えば…

11/1には、教科書Chapter2-Aの範囲の課題たちを回収します。
・動画を観てメモを書き込んだプリント(動画観て書き込んできたか?!)
・Chapter2-Aの新出単語を抜き出した単語リスト(単元テストの予習してきたか?!)
・Chapter2-Aに付随する内容の確認テストを解いたもの(単元テストの予習してきたか?!)
…という感じで、11/1のためにきちんと備えたかどうかを確認します。

また、11/1の授業は、
・前半20分間→Chapter2-Aについての復習(自習)
・後半30分間→単元テスト
というかたちで、テストに向けての予習(20分)と単元テスト(30分)で授業が終わります。つまり、50分間、私が生徒たちに向かって話をする時間は皆無です。

ちなみに、この単元テストは私のオリジナルの“手作り単元テスト”です。
動画を観て予習してきた者だけがわかる内容も盛り込まれています。
よって、単元テストに向けて動画予習してきてきていない生徒は満点をとることは難しくなります。

こうやって単元を細かく分けてその都度単元テストをすることで、生徒は計画的に学び始めるようになりました。
無論、こういった課題の回収を行う時にさえ、他の生徒の宿題を写す生徒はいます。
しかし、見ていても極力私は何も言いません。

ただ「自分の良心に問いなさい」とだけ言います。これを追いかけ回し始めると、「言われるからやる」「叱られるからやる」というだけのマインドに追い込むことになってしまうからです。

自分で気づいて学習を進めるようにならないと、意味がないのです。
あくまで「自分でやるか、やらないかを決めなさい」と生徒には言い続けます。
人のものを写してもらった成績評価で良いのか。そういう人生で良いのか。
「あなたたちが高校に行くか行かないかを自分で決めたように、私の授業の提出物を自分でやるかやらないかは自分で決めなさい」と言い続けるのです。

もう18歳です。
自分のやるべきことを自分で理解し、行動に移せないようでは困ります。
彼らのお尻を叩き続けるのは教育ではありません。調教です。
教育とは追いかけ回すことではありません。自立し、自走できる力を身につけさせるために適切な声かけをしながら、教育活動を工夫し続けることです。
私は常々、彼らに対してそういった声かけを続けました。

普通ならば、ここで気づかなければいけませんが、残念ながら私が受け持った生徒の約30%くらいは私のメッセージの意味が受け取れないままだったと思います。
しかし、もうこれはある意味仕方のないことだと割り切りました。

家庭教育でしか得られない貴重な経験や学びを得てこなかった証拠でもあります。
たかが出会って数ヶ月の教師に、保護者が与えた教育を修正することは不可能なのです。
…がしかし、多くの生徒の中に変化が現れ始めているのは顕著でした。
「自分の意志で勉強している」そういう自覚が生徒の中に生まれ始めていました。

また、11/1の授業は、
・前半20分間→Chapter2-Aについての復習(自習)
・後半30分間→単元テスト

という、私が教壇に立ち全体説明を全くしない授業になるわけですが、

前半の20分間には、Youtubeで配信されている私の解説動画を観てもいいことにしました。
動画予習は完了している場合なら、音楽を聴きながら勉強しても良いと言いました。

人間というのは禁止されると反発としてやりたくなってしまうものです。
「単元テストのために動画を観ていいよ」「音楽聴きながら復習してもいいよ」
と言うと、教室は一気に静まり、それぞれが自分に必要な学びを始めます。

あの時の教室の雰囲気を私は一生忘れないと思います。
教室を見渡しても、歩いてみても、皆がそれぞれに学習していました。
宿題のやり残しがある生徒はそれを、
動画を見直しながらメモを確認する生徒はそれを、
全く宿題をしてこなかった生徒はせめて新出単語くらいは…とそれを、
今日の単元テストの準備はバッチリで次の範囲に進む生徒はそれを、
各々が”今自分は何をすべきか”を問い、”自分にとって必要なことを学習する”そういった雰囲気があったのです。

私はこれこそ”主体的な学習者”の集まりではないかと思います。
“今の自分に補うべき能力を自ら補う”これは、モンテッソーリ教育にも通ずるものです。

しかし、残念ながら最後まで動画を観ない生徒はある一定数いました。
「動画など観なくてもわかる」なのか「家で動画なんか観てられん」なのか、
生徒の抱く真意はわかりません。
正直、英語が得意な生徒なら、動画を観なくとも一夜漬けで考査は解けてしまうのです。
それが今の学校教育の脆さ、考査の在り方の問題点だと感じます。
“一夜漬けで解けてしまう考査”この考査の質もまた問題なのです。

考査について話をすれば、ほとんどの学校では授業担当者別考査ではなく、教科統一考査を採用しています。
つまり、3年生で英語Ⅲを異なる方法で教えている先生は5人いるのに、考査問題は一緒だということです。また、考査作成は偏りが出ないように5人がローテーションで作ります。
それもまた”公平性”や”平均”を意識した学校教育の仕組みです。
同じ教科でも、教師が変われば教え方は異なります。よって、教え方が異なるのならば考査は担当者別がベストです。

しかし、担当者によって考査が異なる。というのは、生徒からすると「あの先生の授業受けたかったな~」という不満に繋がるそうで。
そういう差が出ないように、日々授業を大切にし、考査に繋がる授業を行うのが教師の役割だと私は思っているのですが…
そういった”調和圧力”のようなものも教育現場にはまだまだあります。

…とにかく、このようにして動画を観ようとしない生徒には;
・授業計画表を前もって配布する
・単元テストを設けて動画学習の成果が発揮できる場を用意する
・単元テスト実施の日に動画学習をしたハンドアウトを提出させる
という風にして、どうにか「動画観ないとやばいかも」という状況を作ることで、対策を講じてみたのでした。

to be continued…次に続く

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