【オランダ】「日本の教育」という”大きすぎる言葉”を使う危険性

こんにちは!
ここ数日clubhouseや様々なところで教育の話を聞きながら、
「日本の教育は」「日本の教育って」などという言葉をたくさん聞いてきました。

その中で生まれたのは、
「日本の教育」と括れる教育なんて存在するのだろうか?
という疑問です。

「日本の教育」という大きすぎる言葉は何故存在する?

これは私の勝手な解釈ですが、教育には3種類あると思っています。
・家庭教育
・学校教育
・社会教育(家庭と学校以外の場所や地域で見守る教育)

多くの人々がまとめて「教育」という言葉を使うのは何故か…と考えてみました。
その理由の一つは、ほぼ全ての人がこれらを通過して生きてきたからなのではないか。そんな風に感じています。

誰しもが家族や保護してくれる大人に囲まれ、学校という場所で学び、社会という場所で見守られながら生きてきた。

日本に限っては、法律上、これらを通過することなく大人になることはほぼ不可能だと思われます。
それはつまり「教育、私も知ってる!経験してきた!」という人が社会に多く存在する。ということなのではないかと思います。
そしてそこでは「みんなが語れる共通のトピック」が「教育」になるため、「私も教育のことなら話せます」という雰囲気が出来てしまうのだと思います。

誰もが「教育のこと」を話すのは悪いことではない

ただ、私は決して、それが悪いことだとは思っていません。
大きな意味の「教育」は結局のところ「未来づくり」なのかもしれません。
よって、多くの人たちが「未来について語る」という機会や時間はおおいにあって良いと思います。
特にclubhouseのような音声によるSNS上で、たくさんの人々が声を介して話をすることにも意味があると思います。

あなたは「学校教育」の中にいた人ですか?

ただ、私が気になるのは教育を細分化せず、「家庭教育」と「学校教育」と「社会教育」を全て混ぜた状態で「教育」とし、特に学校教育に携わったことのない人が「日本の教育は」と語るところにあります。

また、その中でも「日本の教育は」という言葉の中に「学校教育」を批判するような内容を盛り込む方がいることをとても残念に感じています。
誰でも教育について語ることが許されるのは確かですが、そこには教育の細分化というアイデアが抜け落ちているのではないか…と感じるのです。

私が現在の日本の学校教育があくまで「教育」の一部であり、特別な場所だと考えるのには理由があります。
その理由の一つは、多くの教育現場では、「継続的な教育活動」というのは、学校現場で教育に携わる教職員だけが担えるものだと理解しているからです。
そして、それを通して生徒たちをより良い方向に導くことは私にとって最も困難なミッションでした。

「一斉授業」や「偏差値教育」など、”日本の教育は”と称し、その批判をする方々は多くいます。
ただ、私がそうした方々に問いたいのは、
そのうちどれくらいの人たちが30名〜40名の生徒を一斉に指導し、長期的な目線で子どもたちを導くという経験をしたことがあるのか。
ということです。

時に「自分が学生時代に生徒として受けた教育」を同じ意味合いで使われる方もいらっしゃるのですが、「受ける側」と「導く側」の役割は異なるものであり、そこには”大きな違い”があることに気づいてほしい。

この構図がこれからの教育の中で変わっていくことは確かだと思いますが、これまでの多くの教育を語るのであれば、この前提をなしに学校教育を語ることは出来ないと思うのです。

子育てを通した教育は学校教育とは異なる

「長期的な教育」と言えば、家庭における子育てもそうでしょう。
しかし、前にも述べたように30人〜40人の子どもを一斉に導くような子育てをしている保護者はそうはいません。
また、家庭教育から学校教育を見た時、「自分の子どもというフィルターを通した教育を見ている」ということを忘れてはいけないように思います。

いくら我が子を通して「学校教育を見た」「学校教育を知っている」と言っても、それは大人数を導くという意味での学校教育ではなく、また、自分の子どもの先にある教育である以上、そこにはバイアスがかかっている…

オランダで一人の子どもを育てるだけの保護者として教育を見た時、そこから見る教育は私が教諭として見てきた教育とは大きく異なる。今、教師ではなくなった自分はそれを改めて感じています。

他人のプロフェッションに土足で入り込まないという礼儀

私たちは「プロのことはプロに任せる」「プロのことはプロしか知らない」という専門性に対する礼儀を、時に重く受け止めなければいけない…
私の周囲のオランダ人は、
「学校のことは学校で働く人々にしかわからない」
という言葉をもって、そう私に教えてくれました。

オランダに来て、私は教師という仕事が社会からもっと大切にされるべき仕事だったんだということを周囲のオランダ人に教えてもらいました。
もちろんオランダでも教師という仕事のステータスが危ぶまれているというのがあるのは事実です。

ただ、自分が持ち合わせない専門性を持ち、その仕事に従事している人たちには、その人たちだけが持っている専門性があり、それ故に苦労があり、経験があり、ジレンマがある。
それは教師に限らず、どの職種でもそうではないか、と私は思います。
だからこそ、そこには「土足で踏み入らない」という礼儀が必要なのだと思うのです。

しかし、もう一度言いますが、それは誰もが教育を語ってはいけないという意味ではありません。ただとりわけ「学校教育」に対する批判は、よく調べ、問題点を洗い出し、改善点が何かを提案できるところまで用意して欲しいと思うのです。

そうでなければ、この誰もが語りやすい「教育」というトピックに関して、批判だけで終わってしまい、未来を良くするどころか悪い印象だけを与えることになってしまう。
未来を良くしたいのか、悪くしたいのか…そこを深く考えて発言して欲しいのです。

危機感はわかる。でも、あなたが日本の教育を悪化させることに加担していませんか?

日本の教育はよく批判を受けますが、変化しています。
その変化の速度を”速い”と感じるか”遅い”と感じるかは人それぞれですが、確実に変化しています。

教育の変化を「遅い」と感じる人たちの苛立ちも理解できる部分ももちろんあります。
ただ、批判と一緒に提案が欲しい。欲を言えば予算も欲しい。笑

何かを批判することは簡単ですが、教育に介入し、継続的に変化を与え続けることは難しい。それはやはり人を育てる「学校教育」が感じている難しさと同じだと思うのです。

継続的に学校教育に変化を与えてくれるような大人がもっと増えることで、教育が社会に開かれ、学校が社会に対して助けを求められるようになって欲しい。これが私の願いです。

そして、私は今、オランダの教育改革に携わる行政や教育者の方々にアプローチすることで、その仕組みの成功や失敗を教えてもらっています。もう日本の教師ではない私ですが、そうではない立場から出来ることがきっとある。そう信じて前に進み続けたいと思っています。

「教育」という言葉を細分化し、「学校教育」を担う教師たちへのリスペクトを。
プロフェッションを尊重する個人主義のオランダで教えてもらったことです。

この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央

Nao Mishima

  • 居住国 : オランダ
  • 居住都市 : バーグ
  • 居住年数 : 2年
  • 子ども年齢 : 4歳
  • 教育環境 : 現地公立小学校

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