【オランダ】“体裁のための子育て”をやめること
先日、娘が公園で遊ぶ様子を見ていた時のことです。
日本ではほとんどの公園から撤去された「グローブジャングル」というものに娘が学校の友達と乗っていました。
そこに、他の数名の同じ歳くらいのオランダ人と思われる男の子たちが乗ってきて、みんなで交代に回したりして遊んでいたのでした。
どんどん回転速度が上がっていく
娘が一緒に遊んでいた学校の友達は、その遊具が大好きで、どれだけ速い回転になろうとも楽しんでいる様子でした。
娘も最初は楽しそうに乗っていたのですが、時間が経つにつれて(恐らく徐々に怖くなってきたのだと思います)、だんだん険しい顔に変わっていきました。
そして、娘が回している男の子に向かって、
“Stop!!!!!”
と叫び出したのでした。
同じ歳くらいの男の子は、すぐには聞き入れず(もしくは聞き入れたけれどあまりにも速い回転だったため、体力的に止められなかったのかも)、徐々にスピードは落ちていきました。
娘は安堵した顔つきになり、降りるのかと思いきや、今度は位置を変えて乗り続けたのでした。
またどんどん速くなる!
娘の様子を見ていた私は、まだ乗るということはそれなりに楽しんでいるのかな、と思っていました。
また、男の子が回し始め、どんどんスピードが加速していきます。
外から見ても「速いな!」と思うくらいのスピードになった時、また娘が、
“Stop!!!!”
と叫びました。
しかし、今度は男の子もあまり聞き入れる様子がなく、他の子も楽しんでいる様子だったのもあって、まだしばらく回し続けました。
すぐに減速しなかったので娘は不安に思ったのか、泣きながら、
“Stooooooop!!!”
と叫んでいました。
そして、遂に遊具が止まったのです。
子どもたちがどう折り合いをつけるのかを見届ける勇気
娘が涙を流して男の子に訴えている様子を見ながら、そこへすぐに向かおうか、一瞬悩みました。
ただ、
「子どもたちがどうやって折り合いをつけるかもう少し見てみよう」
今日はそんな風に思いました。
少し勇気がいる行為ではありましたが、その状況自体は、何かを投げられたり、暴力を振るわれているものではなかったので、娘の叫びを子どもたちがどう処理するのか…それをじっと見守ってみようと思ったのです。
また、聞き入れられない状況に対して、娘がどういった行動に移るのか…
それもまた見守ってみようと思ったのでした。
自分たちで何かを解決できるようになるためには、練習が必要だ
その状況を見て、
「この子が泣いているから止めてくれる?」
と、男の子に伝え、娘をそこから降ろすことは簡単なことだと思います。
しかし、仮に子どもたちが子どもたち自身で何かを解決に導くことができるようになって欲しいと望むのであれば、やはり場数が必要なのではないか…
そんなことを考えながら、しばらく子どもたちの様子を見ていました。
「止めに行かないで、見守っていると良いわ」
その状況を見ていたのは私だけではなく、一緒に来ていたママもそれを見ていました。
「泣いてるけど、これからどうするかな…」
そう言った私に、
「止めに行かずに見ていると良いわ。子どもたちが自分たちで何とかする時ね」
と言ってくれたのでした。
「大人が仲裁に入ったりすることは時と場合によって必要だけど、その見極めはとても難しい。困った時にいつも親がいるとは限らない。今回はここで待ってみようと思う」
そう言った私に、
「それで良いと思うわ、菜央」
そう言ってくれたのでした。
泣きながら戻ってきた娘
案の定、2回目の回転にダメージを食らった娘は、泣きながら私のところへ戻ってきました。
「止めてって言ったのに止めてくれなかった!お腹が気持ち悪い…」
ひとまず娘の言い分を聞いて、とにかく抱きしめました。
お腹が痛いの言うのでお腹をさすり、涙を拭いて落ち着くのを待ちました。
「1回目でやめてって言った時、何で降りひんかったん?」
そう聞く私に、
「もっと乗りたかった」
とのこと。
「そのまま乗ってたから、”速くても大丈夫なのかな?”と思ったのかもしれんね」
と言うと、
「うん」
と答える娘。
「どうすれば良かったんやろうね」
と言うと、
「あんまり速くしないでねって言えば良かったね」
と。
「そうやね。止めてって言ったらすぐに止めてね。って言っておけば、ひょっとしたら”Stop!!”のあと、すぐに止めてくれたかもしれんね?」
と言うと、
「うん」
と納得した様子でした。
娘も娘なりに何かを感じたのかもしれません。
泣いている子どもをそのままにしておくことの罪悪感
娘が泣きながら回転遊具に乗っているのを、私は遠くから見ていました。
自分の娘が涙を流しているのに、そこにすぐに駆けつけないこと。
それは、私にとって大きな罪のようにも感じられました。
「自分の子どもが泣いているのに、親は何をしているんだ」
あの様子を見て、そんな風に思った人が少なからずいたかもしれません。
そして、今までの私であれば、娘にすぐに駆け寄っていたように思います。
しかし今回は、自分の体裁ではなく、「子どもたちの成長を見守ってみる」というのを選びました。
もちろん「体裁うんぬんの話ではなく、子どもが泣いていたらすぐに側へ行くのが当たり前でしょう」と思われる方もいらっしゃると思います。
ただ、そこに正解が存在しないからこそ、見守ってみたいと思ったのです。
私は、このオランダという国で、周囲の教師や保護者から、
「子どもたちの成長する力を信じる」
という、「待つ姿勢」を教えてもらってきたように思います。
もちろん、オランダ全土の教師や保護者がそういった姿勢を持っている訳ではなく、日常のどこにでもそういった「見守る姿勢」があるという意味ではありません。
“体裁を気にする子育て”をやめることが出来たのは
ただ、私(たち)は日本にいる時、「体裁」を気にした子育てをしていたように思います。もちろん職業柄のプレッシャーもあったと思うのですが、「誰が見ても”正しい”と思えるような子育て観」に縛られていたように思うのです。
それが果たして誰のための子育てだったのか。
未だに思い出すことがたくさんあります。
自分たちが思う子育ての在り方よりも、周囲に認められる方法で子育てをする方がよっぽど楽だと感じていた。ということなのかもしれません。
周囲の目を気にして、我が子を躾けたりしていた日々。
その呪縛から自分たちを解放することが出来たのは、緊張感のあった教員という仕事を辞めたこと、そしてこの国の暮らしの中で、社会が子どもを見つめる目線に「愛情」を感じたからかもしれません。
子育てに対するプレッシャーが最低限に抑えられた社会では、周囲のための子育てではなく、自分たちの信じる子育てがしやすいということがわかったのです。
今日の一件で、娘自身が何かの学びを得てくれているかどうかはわかりません。
また、回転遊具を回していた少年が心で何かを感じたかどうかもわかりません。
しかし、そういった場面を全て大人が解決してしまった場合、
彼ら自身が心で何かを感じて、学び得ることもないのかもしれません。
ただ遠くから見守り、子どもの成長する力を信じる。
子どもたちを真っ直ぐに見つめ、答えのない子育ての中で、今のベストを考える。
涙を流した娘が戻った私の胸で、思いっきりハグをしながらそんな子育ての在り方について考えていました。
この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央
Nao Mishima
- 居住国 : オランダ
- 居住都市 : バーグ
- 居住年数 : 1年
- 子ども年齢 : 4歳
- 教育環境 : 現地公立小学校