【オランダ】”休校措置”は正義なのか

少し、議論を呼びそうな内容になるかもしれません。
(って、一体このブログについて誰がどこで議論をするのか謎ですが)

EU各国が休校を発表する中、なかなか休校の措置をとらなかったオランダ。
その理由の一つにはきっと、経済的な理由により学校に頼らざるを得ない暮らしをしている子どもたちを守るという、学校の役割の意義を最後まで尊重したかった。というのがあったのではないかと思っています。
(長い説明ですみません)
そして、お隣の国イギリスの休校判断が遅かったのも、同じ理由なのではないかと推察します。

私と彼は子を持つ保護者でもあり、教育者でもあります。
よって、”一斉休校”という言葉を聞いた時に抱く感情や、その言葉が意味するものは単なる”保護者”だけの視点だけではない場合があります。

これは、”学校”という存在が“教育活動を行う以上の場所”であることを、経験を通して知ってしまっているからなのかもしれません。
少し遠回しな言い方になりましたが、つまり、学校が貧困層の子どもたちやその保護者たちにとって“唯一自分たちの置かれた状況を忘れられる場所”として存在している場合もある。ということです。

オランダにおいてこの”休校措置”を当たり前に多くの人が求める中で、
教育者としての気がかりは、その”当たり前”と振りかざされる正義の裏で生きる人たちのことでした。

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少し話がずれますが、私は自分が住むハーグの子どもたちのために毎月寄附金を納めています。
これは、ひょんなことから見つけた支援団体によるもので、担当者と直接会って話をした時にとても説得力を感じたからでした。

私が毎月納めている寄附金は、ハーグで暮らす貧困層の子どもたちのために使われます。
学校に十分なランチやスナックを持ってくることが出来ない子や、体操服に穴が空いていてもすぐに買い替えられない子、そういった子どもたちのために使われるそうです。
そして、私が最も納得したのは、私が納めた寄附金が決して”その子どもたちの保護者”の手に渡らないということでした。

これは、そういった比較的貧しい家庭で育つ子どもたちの保護者の在り方を非難している訳ではなく、そのような保護者たちは受け取った善意ある寄附金を子どもたちのために使わないという選択をしてしまう。ということなのです。
それは、保護者の判断が誤っているというよりは、誤らざるを得ない状況があるということ。

納めた寄附金は援助が必要な子どもたちの学校に割り当てられ、そこで”その子”に必要なものを学校が購入するかたちで使われるとのこと。
熱く語る担当者の言葉を信じて、私は毎月の寄附金を自分が住むこの地域の子どもたちのために納めようと決めました。(最初は少し疑ったのですが、色々調べた結果信頼できる団体だと信じるに至りました)

寄付の話は自慢ではなく(そもそも納めている寄附金は自慢できるような額ではありません…)、
いわゆる”貧困”というものは、自分が教員として勤めている時にもかなり身近にあり、経済格差と教育格差はとても深刻な問題である。という感覚が強く、今もその意識が抜けていない証拠なのだと思います。

…だから、かもしれません。
“休校にせよ”という署名を集める保護者たちの裏で、休校措置に怯える人たちのことを思うのでした。

もちろん、感染拡大を考えれば休校の措置も止むを得ないとは思います。
ただ、私が思うに、
「こんな状況なら休校にすれば良いのに」
と言える家庭は、比較的余裕のある家庭なのだと思います。

もちろん、休校になれば仕事のアレンジメントが大変になります。
どちらが子どもの面倒を見るのか、ベビーシッターを雇うのか、年休を消化するのか…など、
大変なことだらけです。
そしてもちろん収入の問題も。休校措置はある意味、家庭にとって死活問題です。

ただ、その一方で、
「子どもがウイルスに感染しても止むを得ない….だからどうか休校にしないで欲しい。休校になれば生活は立ち行かなくなる」
それくらい切迫した状態で生きている人たちがいることも確かだと思います。
“節制”どころの話ではなく。
もう生きていけなくなってしまうのではないか。という感覚を持ち、怯えながら暮らしている人たちです。

そういった家庭にとって学校は、時に子どもたちを守るための場所でもあります。
“学校がある”
ただそれだけのことが、彼らにとって何よりも意味があり、重要なことなのです。
そういう家庭状況では”学校”という存在の意義は、一般的な家庭が抱いている以上の意味を成すと思います。

収入面で言えば、子どもが不在であることが収入に直結する。
子どもの精神的面で言えば、学校に行っているだけで子どもは経済的格差を感じる機会が減る。(全てなくなる訳ではありません)
収入的不安は保護者の精神的不安になることは間違いありません。
そういった中、子どもたちがどれくらい長く生き延びられるのか…

多くの家庭が休校措置を求める中、
我が子の身に降りかかるかもしれない謎の多いウイルスに慄きながらも、
「休校にすべきだ」
と言えない家庭もきっとある。
そしてそういった家庭からこそ声が上がらない…それほど深刻な状況だったりするのかもしれません。

そういった家庭や、そういう状況下で生きる子どもたちのことを考えると、
教育者としては心が傷みます。
一斉休校が落とす本当の影は、実はもっと別のところにあるのかもしれない。と思ってしまいます。

かといって、そういった子たちを守るために学校を休校にせず、感染の拡大が広がることが良しとされる…
それもおかしなことだと思います。

ただ、感染拡大を抑制するための一斉休校が、大きく意味のあることだと信じている人たちの裏側で、
休校自体に全く価値がなく、むしろ休校のおかげで様々なものが崩壊していく…と震えている人たちの存在を忘れてはいけないと思いました。

念のため言及しておきますが、私は休校措置を非難している訳ではありません。
ただ、人々が全体的な流れから“これこそが正義だ!”と振りかざす時には必ず、振りかざすことができない人たちのことを考える必要がある。ということが言いたいのです。

節制生活を続けることで生きていける家庭にとっての一斉休校と、
感じる必要のなかった世の不条理を子どもに突き付けなければいけなくなる家庭の一斉休校。

オランダのようにどのような背景を持つ子どもたちにも教育が無償である国では、様々な背景を持つ家庭や子どもたちを抱えているからこそ、一斉休校の判断は慎重になり得ると思います。
子どもたちのことを一番に考える国だからこそ、どんな状況下にいる子どもたちも守るために、教育措置を慎重に検討したいのだと思うのです。

今、多くの国において子どもたちが学校に通う機会を一旦奪われています。
子どもという不自由な存在が、社会のあらゆる影響から解放され、いち早く教育の場に戻れますように。
子どもたちが本来あるべき姿に早く戻れますように。

一日も早い事態の終息を心から願っています。

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