“やれば”できるイエナプラン〜公立小学校での実践例〜
プロローグ
京都(著者在住)から車を約3時間半走らせると、新東名高速に現れる「川根本町」の看板。看板に従ってインターチェンジを降りると、河川敷のとても広い川が「ようこそ!」と言わんばかりに出迎えてくれる。広がる視界に嬉しくなりながら、ナビに従ってその川沿いの道を走り出すと、綺麗な桜に出会えた。著者の訪れた2月に咲く桜だなんて、河津桜かなあ、なんとも気が早い桜だなあと思いながら、夕日と桜の生み出す美しさに思わず車を停めて写真のシャッターを切った。
高速道路を降りたし、さあ目的地までもうすぐかな!と思ったのは、甘かった。川根本町の最寄りのインターチェンジ島田金谷ICを降りてから目的地のお宿まで、ナビが示すのは約1時間。すでに陽が傾きかけている中、真っ暗になる前に到着できるといいなと思いながらも、普段なかなか目にすることができないとてものどかな風景を楽しみつつ、山と山の間をゆったりと流れる幅広い川に添いながら、明日訪れることができる第一小学校にワクワクを募らせる1時間のドライブとなった。
中川根第一小学校との出会い
そもそも、陸の孤島とも呼ばれている静岡県の川根本町にある中川根第一小学校と著者とのご縁は、今年度(2022年度)にこの学校に着任された濵大輔先生と出会えたことが始まり。とてもユニークで一冊の小説になりそうなくらいの経歴を持っている濵先生が、「ぜひ、第一小学校の様子を見にきてください」と声をかけくれた。
というのも、この中川根第一小学校は、2022年3月でこれまでの歴史に幕を閉じる。地方の小学校で頻繁に起こっている、少子化の波に飲まれ子どもが減少し複数校で合併するという流れが、この川根本町でもまさしく進行形。現在(訪問当時)1年生~6年生の全校生徒合わせて37名である中川根第一小学校の、この小規模感はもう間も無く終わりを告げる。もちろん、合併し子どもの数が増えることにおけるメリットはある。そのメリットをわざわざここで羅列する必要はないと思うので省略するが、実はこの、第一小学校の現状である小規模感が、この学校が取り組んでいる学びの形において大きなポイントとなっていることは、間違いがないのである。
イエナプランとは?濵先生とは?
この中川根第一小学校が取り組んでいる学びの形、それがドイツで生まれオランダで発展したイエナプラン。近年日本でも注目が高まっていて、「イエナプラン」という単語を目にしたり耳にしたりする機会は増えている。
イエナプランについて、簡単に説明することは憚られるが、あえて簡単にどういうものかを述べるなら、四つの基本活動「対話・仕事(学習)・遊び・催し」を子どもたちの暮らしのリズムに合わせて交互に繰り返し行い、“共に生きることを学ぶ”学びの形。イエナプランの描くビジョンは、「すべての人が自分らしく生きられる世界の実現」。今、子どもたちの教育において世の流れとして、「個別最適化された学び」に着目されることが多く、またイエナプランもその点において取り上げられることが多く見られるが、イエナプランの本質はそこではない、と濵先生は伝えている。ついつい、実践するにはどうするのかというスキルの面が取り沙汰されるが、注意すべきはイエナプランは形式を強いるものではなく、マインドセットであるということ(もちろんそのマインドに沿ったスキルは存在する)。そしてこれらイエナプランは、文科省が打ち出している「令和の日本型学校教育」とほとんど一致している、とも濵先生は言う。
そんなイエナプランを参酌した教育に、教育委員会が率先して取り組もうと動き出した町が、川根本町なのだ。そしてその動きとして、2017年にオランダにてイエナプランを学び国内のイエナプラン研究&実践の第一人者ともいえる濵先生が、この町へとやってくることになった。もちろん、現場での実践者や管理職と、実際の町に暮らす方々の理解度や熱量の違いはある。それでも、既存の教育にこだわらず、新たな試みに町として取り組んでいこうという姿勢は、これからの日本の地方に、日本の教育界に希望を抱かせてもらえる実例である。
公立小学校での当たり前との違い
星空の綺麗な川根本町(日本で二番目に星の綺麗な町、とのこと)に到着し、一夜明けてお天気にも恵まれた気持ちの良い朝、ワクワクしながら中川根第一小学校に到着した。
濵先生に迎えていただき、渡邉校長にご挨拶をさせていただく。とても物腰柔らかでありながら、川根本町の町の未来を思い描き、この町のためにと強い想いをお持ちであることが伝わってきて、何より、子どもたちへの理解と愛情がある方だなと、渡邉校長のお話を伺いながら胸が熱くなった。
そしていよいよ、濵先生の活動の中心となる教室へ。校舎の外観も、事務室や校長室があることも、教室の並びも、なんら世の中にある一般的な公立小学校と変わらない。それは当たり前で、一年前まで、中身も一般的な公立小学校と変わらないものだった。ただ、濵先生に案内されて入った二、三年生の複式学級で授業中だった教室の中は、一般的と言われる公立小学校の教室とは、明らかに違う様子であった。
まず、机が同じ方向に向いて並んでいない。椅子がサークル状に並んでいる。掲示物で先生の文字が羅列されているようなものはほとんどなく、子どもたちが書いたもの、子どもたちが描いたもの、子どもたちが考えた形跡があるものが並んでいる。スピーカーがあり時には音楽が流れ、畳が敷かれ、ボードゲームやカードゲームも置いてある。教室の隅には、カーテンに見立てた布で仕切られたスペースがある。隣の教室には、テントが張られていた。
そして何より、教室内にいる子どもたちが、授業中に、思い思いの行動を取り過ごしている。そこでは、先生が黒板の前に立ち、子どもたちが同じ姿勢で同じ方向を向いて、先生が言ったことをノートに書きとるような光景は見られない。ヘッドフォンをしながら集中してドリルの問題を解いている子、先生に解説や答え合わせをしてもらいながら問題を解いている子、二、三人で相談しながらiPadを操作しプレゼン資料を作成している子たち、模造紙を丸めたり切ったりしながら創作をしている子たち、みんながそれぞれ違うことをしているのだけれど、驚きなのは、その場の空気が乱れているわけではないということ。言うなれば、自由なのだけど子どもたちの乱雑さがなく(教室内の物の乱雑さは多少あるが)統率が取れているのである。「統率が取れている」というと世の人は、その場にいる者全員が、同じ指示に従って同じ動き同じ様子であることをイメージするかもしれないが、この教室の中ではそうではない。各々が自由な選択をすることができる、という統率が取れているのだと感じた。
実は世の中で当たり前のことをやっている
もちろん、自由と言えど、何をしてもいいフリーダム状態なわけではない。週の頭に、子どもたち自身が自分のために自分の計画を立てる「週計画」というものがあり、その週計画において自分で定めた内容を進めるために、自分のやりやすい場所でやりやすい方法で、自由に学んでいいというわけだ。その週計画に落とし込むまでの、子どもたちが学習スキルとして何を身につけるべきかという枠は、大人側が設定をする。
よくよく考えれば、いや、よくよく考えるまでもなく、これは世の社会の中で、大人たちが当たり前にしていること、またはすべきであることではないだろうか。自分の持つ仕事のタスク管理、そのスケジュール組み、それらに対して自分で決めて行い、成果に対する評価をもらう。業種によって差異はあれど、働くとはそういうことの繰り返しである。
先生が黒板に書いたことを覚えてテストに書くように、上から言われることを覚えてなぞらえるだけとか、授業中にみんな同じことをするのがよしとされるように、決められている行動だけすることが評価されるとか、それが大人として活き活きと働くこととイコールにはなりづらい。これまで一般的とされている学校現場での子どもたちの学びの方法は、実社会との隔離がどれだけ大きかったことか、と思い知った。
濵先生は言う。「学校は大人の働き方の練習をするところ」だと。もちろん学校というものの存在意義がそれだけに絞られるものではないのだが、そうであるべきだとも著者も思う。
教員のマインドセット
子どもたちに「選択」という自由が確保されている学びの現場の中で、では「先生」という立場の存在はどうなるのか。訪れた教室の中には、案内をしてくれた濵先生以外に、女性の先生が教室の中にいた。その先生は、子どもたちが各々に学びを進める中で、一人の女の子の隣に座り、ドリルをやる中での疑問に答えたり、丸つけをしたりしていた。教室の中に「先生の机」なるものがあるわけではなく、子どもたちの中に混ざり気を配っている様子がうかがえた。
そして、ある時間になると、サークル状に並んでいるイスに先生が移動し、それぞれに活動していた子どもたちがワラワラと集まってきて、子どもたちのサークルが出来上がった。そこから、子どもたちの活動の進捗報告と抱えている課題について話をするために、先生がファシリテーターとなり、話が始まった。始終その様子を見させていただいたが、先生は、決して指示をすることなく、子どもたちの話を傾聴し、必要があれば提案をする。その提案も、まず先生がするのではなく、サークル内の子どもたちに問いかける。困っているお友達の課題に「何ができるかな?どうやったら解決するかな?」と、子どもたちのアイディアを引き出していく。そして出てきたアイディアたちを、課題を抱えている子に対し、解決方法として強制するわけではなく、あくまで提案をする形で伝え、最後には一歩前へ進めるように、みんなで「頑張ってね」の拍手をする。子どもたちが考えを言語化できるようにサポートしていくスキルもさることながら、子どもたちの活動やアイディアに対して、否定的な言葉は一切使わないそのマインドが、このサークルの対話の時間を支えていると、筆者は強く感じた。
このように子どもたちのファシリテーションができるようになるには、先生たち自身のマインドセットの変換が、とても重要である。従来の教員養成の過程を通り、先生となった方達は(著者もその教員養成課程を経験している)、先生としてティーチングを主としたマインドが刷り込まれている方が多くいる。しかし、「教える」というティーチングマインドが強ければ強いほど、自分の思いどおりにならないと修正したくなり、子どもたちの言動行動に規制をかける。自分が描いている道が「正」であり、それを逸れると「誤」であると捉えてしまう。子どもたちとの対話におけるファシリテーションに必要なのは、「自身の中に答えはなく、相手の中に答えがある」というコーチングのマインドであり、子どもたちの中から正誤のない考えを引き出すスキルである。
今の現場フォーマットでも”やれば”できる!
現場の先生が持ち合わせるべきは、コーチングのマインドを必須とするファシリテーション力であり、学びを創り出すプロデュース力であると、中川根第一小学校の現場を見ると感じられる。
二、三年生の授業が終わった後は、五年生が、韓国在住のご家族とオンライン対話ツールZoomを繋いで、コミュニケーションをはかっていた。そこまでに至った経緯の詳細はざっくりとしかわからないが、韓国に興味がある五年生メンバーと、韓国で実際に生活している方との出会いをプロデュースしたのが、先生であるという事実は間違いない。
世の中の「先生」と呼ばれる職業は、専門性に長けているべきであるという価値観が強いがゆえに、学校の先生というのは、子どもたちが知りたいことはなんでも知っている、なんでも教えてくれるという、そしてそうあらねばならないという固定概念が少なからずある。しかし、学校現場、特に児童期における子どもたちとの学びの現場においては、学問における専門性を誇るよりも、自身や現場に足りていない情報や知識を、外の社会から引っ張ってきて、子どもたちと共に経験し学びに変えていくプロデュース力が必要であり、その力さえあれば、今ある教育の枠組みの中でも、十分イノベーティブに学びを変化させることはできるのだと、強く感じた。
そしてさらに、そのイノベーティブな学びの変化を、実践・継続させるためには、学校における様々な決定権を持つ学校長の理解と後押しが欠かせないのは間違いない。柔らかな土壌がなければ元気な芽が出て花が咲くことが難しいのは、各教室における子どもたちの構図と、各学校における教職員たちの構図と、どれも同じなのだ。中川根第一小学校には、過去歴代の校長も含め、現校長の渡邉先生が、学校としての柔らかな土壌を生み出していて、だからこそ、いち教職員である濵先生が、子どもたちに向けてイノベーションを起こすことができているのだ、と著者は思う。
エピローグ
濵先生によりもたらされた、中川根第一小学校の現場の確実な変化による子どもたちの成長について、今回著者が見て感じられたのはほんの一部に過ぎないと思う。たった半日、学校の様子と子どもたちの様子をお客さまとして覗かせてもらっただけだったが、それでも、他の小学校との環境の違いも、そこで学ぶ子どもたちのにこやかさも、大いに感じられた。ならば、長い時間子どもたちに寄り添っている現場の先生たちこそが、学びの変化がもたらす子どもたちの成長の変化を、一番ヒシヒシと感じているはずだ。それら現場と子どもたちの変化の様子は、この1年間濵先生がしっかりと、保護者に配布する学校通信を発行しながら、記録を残している。このほぼ毎週発行された通信が、とても魅力の詰まった仕上がりになっているので、いつの日かより多くの方が読めるようになったらいいなと、著者は考えている。
そんな、小さいながらも大きな変革を生み出していた中川根第一小学校が幕を閉じた後に生まれる新しい小学校でも、子どもたちが「ホンモノ」に触れ、自分らしく生きていける学びが溢れる環境が、生み出されることを願うばかり。そしてこの著者の願いは、必ず叶うと確信している。それは、川根本町で出会えた大人たちが、本心から子どもたちの教育において想いを馳せる方ばかりだったから。
教育というものは、どれだけ力を注いでも、結果が出るのに時間がかかる。そして結果が出たとて正解不正解なんてあるものではない。しかし確実に、この町の、この日本の、この世界の未来をつくっていくのは子どもたちであり、その子どもたちの成長に大きく影響を及ぼす学校教育が、大きくいって全人類の未来にどれだけ大切なことなのかは、疑う余地もない。
完