【オランダ】博学であること ≠ 生徒を惹きつける教室づくりと学びのある授業ができること

みなさんが自分の学生時代を振り返った時、
「授業が待ち遠しかった先生」
はいますか?

私には自分の生涯を通して、数名います。
授業が楽しくて「あの先生の授業まだかな〜」と、授業が始まるのが待ち遠しいと思えるような先生たちでした。

それらの先生が持つ「教科の専門性」が抜群に高かったかというと、今となってはわかりません。
ただ、私が思い浮かべるその先生たちは、自分が教えている教科のことが好きで、その純粋な「好き」という気持ちが生徒である私に伝わっていた…だから、印象に残っているようにも思えます。
それは決して「自分が好きだからあなたも好きになれ」という目線ではなく、「私は好きだからこんな楽しいことを伝えるね!」というスタンスだったように思うのです。

何かを専門的に学んだ人は”それを学ぶ楽しさ”を知っているかもしれない

英語教諭として約8年ほど大阪府の公立学校に勤めた私ですが、小学生の頃から英語が得意というところから始まったものの、英語という言語に対する理解度が高いかと言われればあまり自信はありませんでした。

大学や専門学校等の入学試験があることを前提に、高校3年間の英語を教えることはもちろんできますが、それ以外の部分で自分自身が”博学である”とは言えないと思います。(生徒に対して”何でも聞いて!”とは言いますが、わからないことは”参考書で一緒に調べよう”とか、”次の授業までに調べてくる!”と答えていました)

ただ、何故英語を教えるのか、英語の楽しさとは何か…は、誰よりも熱を持って伝えられる!と思っていました。
しかし、それは決して、全ての生徒に強要したいというものではありません。いくら世の中が英語の価値を高めに判断しようとも、本当に全員の英語レベルが高くないといけないか…と言われればそうとも思わない。というのが本音であり、授業にもそういったメッセージを込めていました。

私が英語の授業の中で一番伝えたかった…というより、生徒と一緒に発見したかったのは、英語という言語の裏側にある海外の文化や多様性、人を見た目やバックグラウンドでジャッジしないことの大切さ、逆にそれを知ることで私たちが持っているユニークな文化の素晴らしさを再認識すること…だったかもしれません。
言語としての英語と同じくらい、言語の周囲にある「英語に関係のあること」の方がよっぽど生徒たちにも興味があり、一緒に学んでいて楽しかったように思います。

そして、その「楽しさ」をピュアな気持ちを持って一緒に共有し、学習者を中心にして教室をファシリテートできるのは、それを学ぶという行為の楽しさを知っているから、つまりこれまで専門的にそれらを学んできたから…というのが少なからず関係しているかもしれません。

博学な人の授業が面白いかといえば、そうではないこともある

では仮に、専門的に何かを学んできた人が学ぶことの楽しさを知っているとすれば、その人の授業は生徒にとっていつもワクワクするものなのでしょうか。
私が働いていた高校という学校現場には博学な先生たちがたくさんいました。
仕事をしながら論文を書いているような人もいれば、生きた辞書のような人もいました。

しかし、必ずしもそういった先生たちの授業が生徒にとって楽しく、学びに繋がるものではないということも感じていました。
私が抱く主観的な意見もそうではありますが、生徒自身の学力やその学力を支えるモチベーションに繋がっていないのです。

「生徒に学ぶ意欲がないからだ」
「彼らは学ぶ楽しさを忘れてしまっている」

教師側がそう言いたい気持ちがわからない訳ではありません。
しかし、少なくとも生徒が眠くなりにくい授業をすることも、もっと言えば「この先生の授業、寝たら損!」と思わせる授業ができる能力も教員にとって必要な資質だと感じるのです。

教師全員がエンターテイナーであれ!とは思いません。
しかし、自分が教える教科の魅力を届け、生徒たちと一緒に成長することを望むのであれば、その熱意や情熱は授業の在り方に反映され、目の前の生徒の「今」に応じて常に改良を重ねられると思うのです。(もちろんそれに集中できる業務量と職場環境があれば)

「何かを知っていること」と「教えられること」は異なる

私たち夫婦の教員生活は大阪府にある工業高校から始まったのですが、そこでの経験は私たちに大きな財産を残してくれました。

「英語なんかいらん」
「一生日本から出る気ないのに、何で英語なんか勉強せないかんの」

と、ド直球でボールを投げてくる生徒40人に向かって何を伝えられるのか。
一体、彼らに必要な”学び”とは何なのか。

何かを知っていることと、それを子どもや生徒の状況に応じて伝えられることとは大きく異なります。

何かを深く学び、よく知っているからといって、博学だからといって、その人が必ずしも子どもたちを惹きつけるような魅力を持って授業ができるかと言えばそうではないと思います。

時に日本では「よく研究していること」や「よく知っていること」が教える立場の人間にとって最も重要なものだとされています。
しかし、目の前の血の通った生徒たちにとって「先生が物事をよく知っていること」も大切ですが、「それを自分たちがわかるように、わかりたい、もっとよく知りたいと思えるように導いてくれる工夫をしていること」も同じくらい大事なのかもしれません。

授業が単純に楽しい、居場所がある、もっと知りたい聞きたい

教師になって1年目、授業を成立させるためには「厳しさ」が必要であり、威厳を失うことを恐れ、考査までの範囲を終了させることにだけ集中すれば良いと思っていた私は、「ただ単に教えること」に全てを集中させ、授業をしようとしていました。
しかし、超がつくほど人間味のある生徒たちを前に、数回目の授業でそれは崩壊します。笑

その時、「ただ単に教えること」がいかに脆く、教育の本質ではないということを思い知らされました。
私に必要だったのは「生徒の今」にフォーカスした授業内容を考え、授業の在り方を緩やかに変化させる力でした。

簡単に言えば「目の前を生徒をよく見よ、自分を変化させよ」ということです。

時に話を脱線させ、教室全体で爆笑し、自分の考えを話し、生徒の意見を聞き…机に突っ伏している生徒が、
「何?俺も聞きたかった!」
と聞き逃してしまったことを悔いるような雰囲気を作りながら授業をすること。全員がそこに居場所を感じ、全体で緩やかに学ぶことができる教室が必要だったのです。

緩急をつけ、やる時はやるけど、ふざける時は一緒になってふざける。
そんな教室を作り出すことができれば、「居場所を感じる生徒」が増えるということを私は学びました。
そして安心できる居場所の居心地の良さは、良質な人間関係につながり、結果として学びが加速しやすい教室へと変化していくのだということを学びました。

40人の生徒と50分間同じ船に乗り、旅に出ることは容易なことではありません。

船長でもある自分が誰であるかを伝え、
自分の仕事に対する情熱や大切にしていることが船員である目の前の子どもたちや生徒たちに伝わっていなければ、
船長と船員の間に心の通った関係性がなければ、
船は難破し、船員である生徒たちは命を落とし兼ねません。

威張る船長でもだめで、頭でっかちな船長でもいけない。
一緒に網を引き上げ、いつも船員たちと苦楽を共にする船長であること。
いつもそれを大切にしたいと思ってきました。

今振り返っても、私は決して博学な英語教師ではありませんでした。
授業研究ばかりしていましたが、完璧な授業ができた記憶もありません。笑

それでも、50分の授業があっという間だと言う生徒たちと一緒に船を漕ぎ続けた時間と、生徒たちが残してくれた授業への評価アンケートは今でも宝物だと感じます。

私たち夫婦はいつかまた教壇に立ちたいと望んでいますが、その時にまた船員たちと共に学べる居場所づくりのために、今学ぶべきことをこの国の教育に学び、目の前で教えてる生徒たちから学びたいと思います。

この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央

Nao Mishima

  • 居住国 : オランダ
  • 居住都市 : バーグ
  • 居住年数 : 2年
  • 子ども年齢 : 4歳
  • 教育環境 : 現地公立小学校

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