【オランダ】“オランダの公園の多さ”と”幸福度”の関係

先日、行政でお仕事をされている方にインタビューをしました。
その方は行政の中でソーシャルワーカーとしてお仕事をされているのですが、それとは別にオランダでの子育てのしやすさについても行政目線から話をしてくれました。

オランダは”自然”と共存している

私たち家族は今、オランダ第3の都市と呼ばれるデン・ハーグというところに住んでいます。デン・ハーグにはオランダ人なら(ほぼ)誰でも知っていると言われる”Scheveningen”というビーチがあり、私たちはその近くに住んでいます。オーストラリアで言うゴールドコーストのようなところでしょうか。(いや、違うか)

比較的、”都市部”と呼ばれるこの土地に移り住んで感じたのは、自然の多さです。私自身は京都に生まれ育ち、大阪の天王寺に住んでいたこともありましたが、“ありのままの自然”を見つけるのが難しかったように思います。

私たちが住んでいるハーグの地図を見ると、人々が住む地域の中に自然が「わざわざ」用意されているのがわかります。
オランダは慢性的な住宅不足だと言われていますが、だからと言って自然を壊し、住宅に変えるというようなことを安易にしない。と彼女は言っていました。

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家から10分も歩けば、広大な敷地の森があり、そこへ至るまでに5つ以上の公園を通り過ぎることも稀ではありません。

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一方で、私の出身である京都ですが、盆地だけあって周囲に緑は見られますが、中心地に緑はほとんどありません。つまり、自然を見に行くには「わざわざ」そこへ足を伸ばす必要があるということなのではないかと思います。
(嵐山出身の私ですが、河原町や京都駅周辺にはオランダのような自然はないように思います)

もちろんこの国の自然の多さは、土地の低さとも関係しているかもしれないので、一概に日本と比べることはできないかもしれませんが、それでもオランダという国は自然と共に生きていることを感じさせてくれる。というのが個人的な感想です。

ポイントは”都市部”に自然があるかどうか

日本を見渡せば森林は多く、とても自然豊かな国だとは思うのですが、問題は人々が暮らし、仕事をする地域に自然が「わざわざ」用意されているかどうかなのではないかと私は思っています。

例えば、ニューヨークのマンハッタンのど真ん中には広大な敷地を占めるセントラルパークがあり、人々が集う場所がわざわざ用意されています。
忙しいビジネスマンも、子連れの家族も、老後を過ごすおじいちゃんおばあちゃんも「そこに自然がある」ことで、憩いを求められると思うのです。

そういった意味で、生活から自然を取り除いてしまうことは、人間にとってとても不自然なことなのではなないかとさえ思えます。
ただでさえ忙しい現代人がふと周囲を見渡した時、そこに自然があることで人生に余白を持ち、気持ちを豊かにするためのヒントが得られるとするならば、忙しい地域ほど自然が必要なのかもしれません。

オランダの「都市開発」には一定数の自然と公園が必要

行政で働く彼女に聞くと、オランダでは人々が暮らす土地に「自然」があることと「公園」があることはとても重要な事項として考慮されるそうです。

新しく街開発がなされる時も、一定の広さの自然があることと、公園の数は無視されることはなく「必要なもの」としてカウントされると言っていました。

つまり、この国では人間が自然と生きることを「当たり前」と判断し、「わざわざ」そういった場所を用意しているのかもしれません。

外遊びの時間が長い子どもは幸福度が高い

ユニセフの調査でも報告されているのは、外遊びと子どもの幸福度の関係です。残念ながら、そこにオランダと日本のデータはなかったのですが、調査の結果、外遊びの時間が長い子どもの方が幸福度が高いことがわかっています。

それはつまり、家の外に子どもたちが遊べる場所が十分にあることにも関係していると思うのです。どこに住んでいても、公園がたくさんあって、森があって、自然があって、思いっきり身体を動かすことができる。
そういった「わざわざ」自然環境に注意を払う国のポリシーの中で育った子どもたちは、生まれ育った場所に関わらず、子どもらしい子ども時代を過ごしやすいのではないかと思います。

そして、自然が身近にあることで幸福度が高くなりやすいのは子どもに限ったことではなく、大人にとってもそうでないかと思います。ちょっとした気分転換にきちんと歩道やウォーキングコースが用意された公園があることは、大人にとっても豊かに人生を送るためのメリットなのではないかと思うのです。

人は自然に集う。無機質なコミュニティにしないための自然と公園

「人々が自然に足を運ぶということは、少なくともそこで交流が生まれるということよね。別に話をしなくても良いの。でも、そこに自然があって、人が来て、コミュニケーションが生まれる場所が自然や公園だとしたら、私たちは孤独になりにくいかもしれない。自然や公園は、人が人と関わるための”言い訳”みたいなものかもしれない。でも、その”言い訳”がなければ、人と人との関係はより無機質なものになってしまうと思わない?」

よく考えてみれば、私も公園や森の中で多くの人々と会話を交わしてきました。娘が森で出会った子と仲良く遊び、友達になった家族もいれば、公園で連絡先を交換したママたちも1人や2人ではありません。

時に、お年寄りと話をし、若い学生と話をしたこともあります。普段の生活の中で自然や公園がなければ、そういった人たちと話をすることも、異なる価値観を知るきっかけもなかったかもしれません。

人が集う場所をわざわざ用意する…
人が孤独にならないため、人が人と出会い交流するため…そのために自然や公園は必要なのだと彼女は教えてくれました。

人が集える場所をもっと

この話を聞いて、私は日本にももっと人々が”自然に”集える場所があって欲しいと思いました。
私の子どもの頃を思い返すと、家の近所にはいくつもの公園や田んぼ、駄菓子屋さんも数えられるくらいありました。しかし、いつの間にかそれらが消えてしまっています。

学校でさえ壁を高くし、人々が集いにくい場所となってしまった今、現代に生きる人々はより孤独を強いられているのかもしれません。
もちろん自然や公園の数だけの問題ではないと思いますが、「人は自然と生きる」という人間の本質のようなものをもっと真剣に再考しても良いのではないかと思います。

この記事を書いたボーダレスライター に
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三島 菜央

Nao Mishima

  • 居住国 : オランダ
  • 居住都市 : ハーグ
  • 居住年数 : 5年
  • 子ども年齢 : 8歳
  • 教育環境 : 現地公立小学校

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