《Special Report》手を動かして世界と関わるシュタイナー教育

私はものつくりです。
小さい時から手先を使ってものをつくること、絵を描くことが大好きでした。
小中高とスポーツにもいそしみ、進学校にも進みましたが、結局は自分の好きな事しかやる気になれず、周りの反対を押し切り芸大に進みました。その後も形や程度こそ変われど、描くこと、つくることをやめたことはありません。
はい、今回は私の話です! − ではありませんのでご安心を。 

生活すべてが素材であり題材

シュタイナー教育は手仕事であふれています。
幼児期から主に季節ごとの祝祭などのテーマに沿って、自然由来の素材を中心にもちい、色々なものを描き、造ります。

世界中のシュタイナー学校で行われているであろう、定番的なものから、それぞれの地域独自の特性を反映したものまで多岐にわたります。
子ども達にとって、道に、森に、公園に、落ちているものはすべて工作の素材であり、目に映るものは題材です。 

またパン作り、編み物や縫物、粘土工作、ろうそく作りなど、日々の学校生活の中で、特に行事などでなくてもよく行われています。 
数学は編み目やひろってきた木の実を数え、パン生地を等分することから始まり、割り算や分数では、折り紙も用いられます。
中・高学年になると、美しい幾何学形態を描いたり、板に刺した釘に毛糸を巡らせることで浮かび上がってくる模様を使い、数の神秘が説かれます。

アルファベットも全て象形文字的に、フォルムを与えられ、それが登場するお話を通して学びます。
Dはドラーク(ドラゴン)のポンポコポンのお腹(西洋のドラゴンは東洋の細長い竜とは違い、ティラノザウルスに角や羽が生えたような感じです)で、Kはコーニング(キング)が刀をかざし、足を一歩踏み出したところです。
ですから子ども達は24のストーリーを共有し、その絵を描き、粘土やパンで再現し、体でポーズを取り、(子供によっては親や兄弟に)誇らし気に語ります。(もちろん息子は私のお腹をポンポン叩いて「ドラーク(ドラゴン)」って言いましたよ・・・・)

 3年生ぐらいでは流れるような筆記体を使い出し、みな自分の名前が美しいフォルムで構成されていることに喜びと誇りを感じます。
 そこには「ある年齢以下の子どもは、自分がリアルに感じらるものを通して学ぶべき」というコンセプトがあります。

生きること=学ぶこと

学ぶことは、世界と関わること。
彼らの世界とは、まだまだ大きなものではなく、彼らを取り巻く環境・生活です。
いつも聞いているお話の世界、自分の名前、身近にあるもの。描いたりつくったり、再現しながら自分と自分を取り巻くものを肉付けしながら手探りで確かめる、そんな感じです。 (つまり学問を「学問」して教えても興味も実感もわかないし、うまく吸収できません。数を「数」、文字を「文字」、と机上論的に教えても子どもにとってはピンとこないのです) 

またパンにしろ、編み物にしろ、お話にしろ、程よいところで終わりがあったり、出来上がりが手に取れる・食べられるなどの実感できる着地点があることも、子どもにとっては、安心して自分の中で消化しやすいポイントであると思われます。

体感として学ぶ

娘は中学年のころ割り算の筆算に苦労していた時期があります。
私にすれば、「だからここに、これをこれで割った数を書いて、余った分を下におろして〜・・・でしょ?なんででひきんの???」です(汗)哀しいことに、これ以上のコンセプトはないのです。

先生の対応は。。。。
筆算の周りに綺麗な絵を描いて、数を割るところはリスがどんぐりをわけているような、下におろしていくところは、どんぐりがコロコロ落ちていくような・・・・すっかり童話になっていました。周りに鹿やキツネもいました。先生は娘が大の動物好きということをもちろん知っています。 

その後しばらく、娘はやっぱりちゃんとできていませんでしたが、彼女の筆算はいつも色とりどりで、周りには動物の絵がありました。こちらとしては「答えどこやねーん。。。」「あー、また間違ってる・・・」とじれったく思いましたが、知らないうちに筆算が大好きになっていき、答えもちゃんと出せるようになっていました。

現在10歳で、未だに九九をきちんとできてはいませんが、私もそういう細かいことであまり焦らなくなりました。
以前は「九九が頭に入ってなかったら割り算も分数もやりようがない」と思っていましたが、そういう積立式に一直線最短コースで学ぶというよりは、割り算をやってるうちに相互作用で九九が定着してきたり、色んな要素を取り入れながら、どこかで線の終わりと始まりがつながって、円になり、マルっと包括的に学ぶんだろうな、だからまぁいっか? と思えるようになったというか。

 息子は1年生で棒針編みを始めた時、やめられなくて、歩きながら編み物をしていました。ポケットに毛糸玉を入れて、スーパーの中でも編みながら、前も見ずに歩くので、針が誰かにあたるんじゃないか、とハラハラしましたが、凝り性の彼はやめません。
ブツブツブツブツ目を数えたり、ほどいたり。毛糸玉がポケットから落ちたのに気づかず、長いしっぽのようにひきずってたり。

ある時何気なく2つずつ目を拾っていくと、幅が一気に減りました。目を数えてみると、半分になっています。「・・・・ママこれ割り算?」(姉がしているからなんとなくわかっているけど、ちゃんとはわかっていなかった)と世紀の大発見のように恐る恐る聞いてきました。 
そのあとは「じゃあ4つ拾ったら○○目になる?3つ拾ったら〇目になる?」と、まるで漫画でよく見る、頭に電球がピカ〜っとついた「ひらめいた!」の図です。 

私にしたらなんでもないことですが、そうやって、実際に目の前で起きていることとして数を学ぶのは、私が「20÷2=10」「20÷4=5」と杓子定規に学んだのとは重さも、心への響き具合も全く異なるようでした。 

手を動かす経験が培うもの

今の時代、電子化が進み、ものごとは速く、無駄なく、効率的でなければいけません。なんでもつくるより買う、があたりまえ。つくるなんてそんな時間もないし、買った方が安上がり、も実際よくあることです。
なんなら手を動かして物をつくるなんて、道楽であり、贅沢とも言われかねません。 

私自身、自分がものをつくることについて、考えざるを得ないことは多くあります。時間はかかる割にお金には大してならない、道楽なのか・・・。
でもこの充実感と、没頭しているときの瞑想的とも言える状態。制作を通して生まれる私なりの、私を取り巻く世界との関わり。そういったことが、自分らしく生きることに欠かせないという思いはあります。
そして、それは子ども達が「つくり・学ぶ」姿を通して強く再認識させられたものでもあります。 

彼らが大きくなるころには、世界はもっと電子化・高速化が進み、人と人との関わりも、世界との関わりも、更に希薄で実感しにくくなっているかもしれません。
グローバル化、ボーダーレス化により、「自分の世界」を定義することすら難しそうです。
情報があり過ぎて見失うことも多いでしょう。
自分がいったい誰なのか?
好きなことってなんなのか?
なんのために仕事するの?
テクノロジーについていけないと落ちこぼれなのか?
メインストリームにいないとダメなのか?
ゆっくり流れる時間って無駄なの?
アイデンティティのクライシスも今よりひどくなるかもしれません。 

そんな時に、手を動かし、小さいながらも安心できる自分の世界と密接に関わっていた子供時代の経験が、彼らの碇(いかり)として、自分を見定める支えになってくれればいいな、と思います。

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