《Special Report》シュタイナー教育における“個の尊重”とは

「個性の尊重」は、現代ではほぼどんな学校でも(とりあえず?)謳われているおなじみの文句ではないでしょうか。

ただ学校という、どちらかというと「統制」的なコンセプトを強くもった組織において、これは実際かなりさじ加減の難しいことでもあります。

シュタイナー教育は「個」の尊重を20世紀初頭から推進してきた一番の重鎮といえるかもしれません。

大切なのは物事の本質

海外で育つと、教育法はなんであれ、一般的に個性や自己・自我が強くなるという認識があると思います。
これには歴史や土壌など、自然とそうなるべくしてそうなった背景が大きく関与しているでしょう。

島国(ほぼ)単一民族国家の日本とは大きく異なるところです。
海外+シュタイナー教育の私の子ども達やクラスメートを見ていても、それは顕著に感じられます。

学校生活の中では、挨拶の仕方、先生の話の聞き方、課題や活動への取り組み方など、いろいろな「やり方」の自由度が高くみんなそれぞれです。
たとえば挨拶、にっこり笑顔でも、目を合わせるだけでも、ウインクでも、抱き着くのでも、ハイファイブでも、遠くから叫ぶのでも、またまた何にもなしでも、なんにも言われません。

「あいさつははきはきと大きな声で」「頭を下げて」などと「やり方」に関する指示は聞いたことがありません。
その子なりのやり方で「存在を示せていて」、「先生とコミュニケーションがとれていればいい」のです。←挨拶の本質?

余談ですが、娘が日本の小学校に1年生の2学期のみに通った際のことです。
初登校の日に、講堂で学年全員の前で紹介された娘は、もちろんおじぎなどしたこともなく、突っ立っていました。担任の先生は「Rちゃん(娘)、あのね、ほら、おじぎ。こう、こうするのよ、ね?」のような感じで見よう見まねでさせようとしていましたが、今一つピンとこずに相変わらず突っ立っている娘に業を煮やし、頭を後ろから押す形でおじぎさせました。担任の先生の対処は明らかに「もうみんなの前なのに困っちゃった」という印象のもので、娘個人のバックグラウンドを尊重するというよりは、「私の生徒がおじぎもできないなんて困る」という様相が。。。海外在住が長い私の意見かもしれませんが、初めて日本で通学する子に初日からそこまで「みんなと一緒」を求めるのか、と少し悲しくなりました。「あ、そっか、おじぎなんてしない国から来たんだもんね、ま、今日はいいよね」という風には受け取ってもらえないのかと。

先生の話にしても「姿勢を正して」「きちんと座って」聞きましょう、など言われることはありません。
みな思い思いの姿勢で、中には落書きや編み物をしながら時折目をあげるだけの子もいます。
要は「話の中身が頭に入っているのであれば良し」。←話を聞く本質?
それで規律を乱されていると感じる先生も少ないようです。

“自由”を見守る

課題や行事への取り組み方、参加の仕方にもかなり自由度が高く、一応「こうやってやるよ」というようなお手本は見せても、そこからの逸脱を特に悪いものとはしていないことが多いです。むしろ、「自由」で「クリエイティブ」と肯定的に取られることも。

娘は今5年生ですが、秋のフェスティバルでは毎年保護者が巨大なドラゴンの形をしたパンを作ります。今年はコロナウイルスの関係もあり、食べ物の共有は控える、ということで、子ども達がそれぞれ小さなドラゴンを作ることになりました。
出来上がりはというと、具象的なドラゴンもいれば、楓の葉っぱみたいなもの(娘曰く「ドラゴンの足跡」)、ただの丸パン(同「卵」)、十字架みたいなもの(同「ドラゴンを制する聖人の剣」)、全く何かわからないもの。。。。十人十色です。
先生は一応ドラゴンのお手本を作って見せたそうですが、あとは特に何も言わずニコニコして見てたそうです。

また、昨年まではクラスの演劇で主役をはりたがってた男の子も、今年は「えー、出たくない。かったるい。」のような節がありました。そういう年齢でもありますよね。
先生が「じゃぁ別にいいよ」と他の子達と役を決めたり練習をしているうちに、離れて見てたその子はあーだこーだ演出を始めて、かたや先生は一歩下がって各シーンにて演奏するギターを練習していました。

右向け右、的に全員が揃っていなくても、ゆるくまとまっていればいい、という感じです。
たまにクラスをのぞく機会があると、私的にはカオス。。。と思うような状態でも余裕をもってニコニコしている先生を見かけます。

揃っていないけれど、削がれていない

このように「自由で」「個々のあり方が尊重された」側面を多く持つシュタイナー教育ですが、それでは学校という「集団生活」の側面はどうなのか、日本人的観点からすれば気になるところだと思います。

これは「集団生活」という言葉に凝縮されているもの自体が、日本と海外で、またメインストリームの教育とシュタイナー教育では異なるので、なかなか難しいところです。

「みんなで同じ様に」のコンセプト自体が、もとから希薄なので、「他人に多大な迷惑をかける」「物を大切にしない」など、モラルに反すること以外は大方よし、であるわけです。
それでは、クラスが崩壊しないか?と言われるとそうでもありません。

まとめよう、とされていない分、子ども達の情熱や学ぶ意思には、粗削りでちぐはぐではあるものの、ポジティブな勢いがあります。
「こうやるんだよ」「そうじゃないよ」「それは間違ってる」ではなく、子供が見つけたやり方やポジションをそのまま助長してくれる先生がいます。

この揃ってこそいないけれども、削がれていない勢いをうまく導くことで、クラスの調和が取れている印象があります。
先生曰く「決して楽なクラスではないけど、何かやろう、と言った時に一丸となって取り組める強さがある」とか。
みんなが同じではなく、非常に凸凹したグループで、あっち向きの子もこっち向きの子もいる感じですが、それを受け止めて伸ばしてくれる先生には絶大な信頼が寄せられています。

シュタイナー教育の小学部は6年間(国よって多少前後します)クラスも担任も変わりません。
幼児期のちょっと上から思春期という多感で変化の多い時期に、往々にして忙しい実の親より、先生の方が子どもと長く濃い時間を過ごすといっても過言ではないでしょう。

娘の担任はベテランの男性教師ですが、母子家庭の子や父親の影が薄い家庭の子は、ほぼ先生に父親像を見出している風さえあります。
こうして小学部時代はゆるくも強い引力を持った先生によって、ゆるやかに集団生活を送っていきます。

シュタイナー教育の先生がみな素晴らしいか、と問われると答えることはできません。「先生が合わなかったからやめた」という話を耳にすることもあります。
ただ、人生の早い時期に、尊敬する先生に出会え長い年月を過ごせることの価値は計り知れないのではないでしょうか。 

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