【オランダ】高校生の大学の選び方

夏休みも終わって、日本の受験生は少し中だるみの時期に入ろうとしているのではないかと思います。

昨年は高校3年生ばかりを担当しており、6クラス約200名の生徒に英語を教えていました。今振り返ると奮闘していた日々がとても懐かしく感じます。
そして今日本にいる彼は、まさに絶賛奮闘中で、ほぼ毎日教育現場の様子を教えてくれます。

さて、私は教師生活の中で担当する受験生たちが理由もなしに「関西大学に行きたい」という発言をするのがとても嫌いでした。
関西においては“関関同立”、”産近甲龍”という、大学の頭漢字をとってランクづけ(?)したような呼び方があります。
無論、近大の大躍進によりこの並びはもはや崩れていると感じているのですが。
むしろランクづけ(?)なんていらなくて、本人が学びたい学問がある志望校に合格できたらそれで良いのですが…

とにかく私の赴任した学校では”頑張ったら入れる大学”として、ある程度の生徒が”関西大学”を目標に挙げていました。(中堅校、やや中堅校くらいのレベルの学校です)
もしくは「関大くらいのレベル」という風に言います。

私にはそれが不思議で仕方ありませんでした。
私は“関大マジック”と呼んでいたのですが、「関大に何かあるの?」という感じ。
もちろん、関西大学そのものを批判する訳ではありません。
普通よりもちょっと上みたいなところ、理由もなく中流層を狙いたいという感覚…
私にはそれが気に食わないのです。

さらに言うと、
「関西学院は無理だし、同志社もきつい、立命館は無理か…うん、関西大学やな」
という安易な思考と「関大くらいに行っておけば何とかなる」という、「関西大学という学校が自分を変えてくれる」という他力本願な思考こそ”関大マジック”だと思っていました。

もちろん、このように考えてしまうのは高校生だけの責任ではありません。
多くの大人が古い考えのまま今の教育を捉えていることが、子どもたちを楽な思考へと導いているのだと思います。

私が生徒に対して「どこの大学に行こうと思っているの?」と聞いて、生徒が「○○大学です」と答えれば「なんで○○大学なん?」と聞くようにしていました。

そして、だいたいの場合そこで会話がスローダウン、もしくはストップします。「え、それくらいのところ行っといた方がいいかなーと思って」
「何となくです」
「親が関大くらいは行けって言うんで」
「みんな結構それくらい目指してるんで」
驚かれるかもしれませんが、だいたいはこんな感じです。

それでも、「○○が勉強したいからです」と明確なことを言う生徒もいます。
そこで私は「その内容、学部なら○○大学にもあるけど、そこやったらあかんの?」と聞きます。

私は大学辞典ではないので、全国津々浦々大学名と学部名が頭に入っている訳ではありません。また、これは別に生徒に意地悪をしたくて言っている訳ではなく。笑
大学に行って学ぶ準備と心意気、自己決定をしたという自覚を本人が持っているか。ということを確かめたいだけなのです。

「えっと、いや、なんとなく○○大学の方が良いかなーと思って」
「お母さんがそこの大学の学部が良いよって見つけてきてくれたんで」
…と、だんだんと理由が曖昧化していくことも多いです。

しかし、「何故その大学ではないといけないのか?」というような質問をしていると、たまに明らかに他の生徒とは違う生徒が現れます。

「○○大学も調べたんですけど、そこでは僕の勉強したい△△という科目が開講されていなくて。あと、留学もしたいなーと思ってるんですけど、○○大学の場合、自分の学科からは留学ができないみたいで。△△以外の科目はすごく良いなと思うんですが、やっぱりそこがネックになって、□□大学にしようかな。と思っています。先生、どう思いますか?」
こんな感じです。

そして、こういった返答をする生徒というのは、自学の習慣がついていることが多いです。

英語の質問を持ってくる時も、
「先生、これわからんのやけど」ではなく、
「先生、この接続詞を選ぶ問題、僕はこの前の文脈から”for”やと思ったんやけど、何で”or”になるん?ほら、ここ見たら….」
という風に、自分はどこまで理解していて、どこからが理解出来ていないのか、ということを前提に質問をします。

また、そういった生徒のノートや単語帳は付箋の色分けがされていたり、質問して解決したことはきちんとメモとして残してあったり…
と、“学ぶ姿勢”みたいなものが確立されていると感じることも多いです。

そして、その“学ぶ姿勢”は大学選びにおいて“情報収集能力”へと繋がっていきます。
明確な目的を持って大学を選んだり、ある項目において3校くらい比較して志望校を決めたり…というようなことをするようになります。

そして、私の投げかける質問にも「自分にはこういった意思がある」ということを前提にしながら話をしようとします。とてもわかりやすく、明瞭です。

ちなみに、「じゃあ先生は、ちゃんと明確な理由があって大学選んだん?」と聞かれるのですが、
私は高校2年の夏に高校を中退して、高校卒業程度認定試験を2年かけて合格し、高3の秋頃に”高校卒業程度”を取得しました。秋には”高卒”を認められた訳です。
ただ、学校に属していないこともあって、受けられる試験は”一般前期”と”一般後期”だけ。これは結構なプレッシャーでした。国公立大学を狙う人からしてみればある意味当たり前なのですが、私は志望校を私学の1校に絞っていたので、学校に属していることで指定校やAOといった試験を受験できる友人たちを羨ましく思っていました。
この時に初めて、「学校通ってないって損…」と思ったことを覚えています。

ということで、ある意味、私が背負っていたものは大きかったと思います。
ただ、その背負った重荷は“自分の人生の責任をとるためのもの”として、良い負荷だったと思うのです。
だからこそ大学選びは慎重でした。進学したのは関西外国語大学でしたが、その理由は、

  1. 留学の提携校数が(当時)全国1位
  2. 留学プログラムが他の大学に比べて充実している(日本で納めた学費がそのまま留学先の学費として使われるので、休学も在籍費用も必要ない)
  3. 家から通える距離に大学がある
  4. 大学の施設が綺麗

…というような理由がありました。京都外大も合格したのですが、やはり当時の関西外大が持つ留学プログラムの充実に勝る大学は、通える範囲ではありませんでした。

高校中退で親に迷惑をかけたこともあって、「きちんとしたい」という気持ちは少なからず自分の中にあったような気がします。
ただ、私の人生は少し特殊なので、現役の高校生の心に響かない部分があるのは理解できます。

…話は少しずれましたが、私はこれまでの教員生活の中で、
「行きたい大学がない」という生徒や、「受験したくない」と言う生徒に、「じゃあしなくても良いんじゃない?」と言ってきました。
そんなことを言うと、「は?先生何言ってるん」と返されるのですが。

保護者からすると「何と無責任な!」と思われるかもしれませんが、自分の意思がない生徒に対してあたかも”今”大学に行くことが価値があるかのように見せて、実際、彼/彼女が入学した暁には「とりあえず入学できたんだから学部の内容に興味を持って頑張れ」と言う方が無責任なのではないか。と私は思います。そもそも大学とは「この学問を学びたい!」と思った人間が通う場所であって、思わないのであれば通う必要はないのです。そのために、大学とは大人になってからいつでも戻れる場所としての役割を持っています。

また、近年では大学にそういう生徒が増え続け、大学側は迷惑をしています。
「学ぶ気がないなら来るな」と、多くの大学教員は思っているはずです。
ただ、少子化もあり大学も経営上強気な発言に出られない。というのが本音でしょうか…
もちろん大学には素晴らしい生徒がたくさんいることも事実なので、これは一部の生徒に限ったことなのですが。

ただ、学ぶ意欲のない学生の進学は、明らかに大学のレベルを下げると思っています。
私は少なくとも「今はまだ大学に行く準備が出来ていない」と言う生徒には「準備が出来てから行くのが高等教育機関だよ」と言ってきました。

もしくは、今はまだ明確な夢や目標はなくても、高校生活の中で目の前の勉強をコツコツと積み上げてきていて、その先に何かを見つけられるのではないか…と思っている。そういう気持ちで大学でも勉強を続けられそうなら、ある程度目標を定めて頑張りなさい。と言いました。いつかくる(かもしれない)未知との遭遇にコツコツと備えられるタイプの生徒です。

目標や目的意識もない受験生に対して私が伝えたかったのは、周囲と足並みを合わせて同じ年齢で学年を上がっていくことよりも、自分が納得した人生を歩むことの方が責任も、情熱も、価値がある。ということでした。

よって、私の話を聞いて「やっぱ今じゃないわ」と浪人を決意した生徒も複数名います。(今、強い意思を持って学業を突き詰めていると信じたいですが)
今どき、浪人生活で塾に通うのにもお金がかかります。自分を律する精神力もいります。ただ、大学に入ってしまったら、そういった経験しなくて良いとしても、目的も目標もない中で、4年間で総額約400万円以上のお金をつぎ込むことになります。

それでいて、大学生活という4年間で何かを見つけられたら良いけれど、見つけられなかったら…
教育という人間を育てることにおいて、明確な答えなどありません。

現役で大学に入学して、好きなことを追い求め、それを仕事にして生きていく。
ひょっとしたら、多くの人が「それが1番!」と思っているのかもしれません。
そりゃ、一発で何もかも上手くいけば万歳なのかもしれませんが、教育においては“みんながそうでなくても良い”という視点が必要です。

学びたいことがある大学に現役で入学して、好きなことを学び続ける人。
学びたいことがある大学に現役で入学したけど、想像していたのとは違う。と思った人。
学びたいこともない大学に現役で入学して、とりあえず大学生活を続けている人。
学びたいこともない大学に現役で入学したけど、学びたいことが見つかった人。
進学したい大学が見つからなくて、浪人をして翌年、学びたいことがある大学に合格した人。
進学したい大学が見つからなくて、浪人をしたけど、結局また見つけられなくて浪人2年目に突入する人。

書ききれないほどの選択肢があり、人の数だけ人生があると思います。

ただ、”大学に進学する”という目的のメインストリームが「なんとなく」になってしまうと、これは国家をも揺るがす事態であると私は思います。

…そもそも、大学に進学することさえ、これからは疑っても良い時代に入るかもしれません。学歴よりも学習歴どこに属していたかではなく、何をしてきたか。です。

「先生、あと1年ちゃんと考えて、色々大学のこと調べて、勉強してから決めるわ」

そう言った生徒たちが今、自分を見失わずに日々を過ごしていますように。
今から、私を慕ってくれていた浪人中の生徒にメールを送ろうと思う秋の夜です。

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